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野瀬と高町は機上の人となっていた。
沖縄の海上保安庁が意識不明の言葉を発見し那覇市内の病院へ搬送したと言う情報が入ったからだ。
沖縄に着いたら言葉が退院可能ならば任意同行で原巳浜署へ連行する事にしていた。また、退院が出来なくともある程度の事情聴取をするつもりでいた。
「森野巡査長。初めて容疑者と会う訳だが」
野瀬はもう一人の同行者に話しかけた。新人の女性刑事である森野巡査長だ。言葉と接触するに辺り、男だけではと付けた女性刑事である。また、森野にベテランの野瀬が現場を教えると言う事も含まれていた。
「大丈夫です。覚悟も出来てますし油断もしてません」
少し緊張したような固い答えが返ってきた。
「まあ、少し力を縫いとけ。那覇に着いてからが仕事だ」
「はっ、了解です」
野瀬が優しく言ったが森野は敬礼でもしそうな固い返事であった。
那覇空港に到着した野瀬達は那覇署が用意した迎えの車に乗り那覇署へ向かう。
言葉はまだ那覇市内の病院に居て意識不明である事。ヨットは重要参考品として海保の基地で預かっている事など那覇署の刑事から報告を受けた。
そして最後に言葉がバラバラになっていた男の遺体をバッグに積め、頭を抱えていたと聞いた。
「みなさん惨殺された遺体とか、酷い物は見たことは?」
場所は変わり沖縄大学医学部の付属病院。ここで伊藤誠の遺体が司法解剖さていた。
司法解剖を担当した医学部の教授は野瀬達にまず注意を促した。
野瀬はちらりと森野を一瞥した。まだ彼女は遺体と対面した事が無い。ましてや那覇署で聞いた状況ではかなり凄惨なものである。
(けれども、警察官の仕事をしてたらいつかは見なきゃならん事だし…)
心配しつつも森野も誠の遺体を見せる事にした。
「これも経験しなくてはならない事ですから」
森野は野瀬と自分の両方に向けて言っていた。
「もう一度言いますよ。この遺体は酷いものですよ」
教授は白いシーツの端を掴みながら再度注意した。そのシーツの下に台に乗せられた伊藤誠の遺体があるのだ。
「では…」
野瀬・高町・森野の顔を見てから教授はシーツを捲った。
「うっ…」
森野はすぐさま右手を口に当てて誠の死体から目を逸らした。
「これを使って」
教授は紙袋を森野に渡した。森野は隅で嘔吐した。
「こりゃ女性、いや、新人にはキツイですね」
高町が誠の遺体を見て言った。
目の前には人の形に置かれたバラバラの部位が台の上に置かれていた。
「それにしても、若い子がよくやったもんだと思いますよ」
教授は冷めた口調で言った。幾つもの遺体と対面したせいだろうか。
「腹部から胸部にかけて刃渡り5センチの文化包丁で複数刺した跡がありました。どうやらこれでショック死したのが死因でしょう」
教授は続けて説明した。
この説明に野瀬は伊藤誠殺しが西園寺世界によるものと確信した。榊野学園屋上に落ちていた血の付いた包丁。それで誠を殺害した世界は言葉をもその包丁で殺めようとしたのだろう。
包丁の血は野瀬の目の前に骸となった誠のもので、世界はその包丁に言葉の血を染みこませようとしたが敵わなかった。
聞いた話では桂は居合いの達人だという。少しでも戦うやり方をしっていた桂に西園寺は返り討ちにあったのだろう。
「お、こんな時に」
突然野瀬の携帯電話から軽快な着信メロディが流れる。野瀬は慌てて上着のポケットから携帯電話を取り出した。
電話の向こうからは焦った声で那覇署の刑事の声が聞こえた。
「大変です野瀬さん。桂が病室から逃げたそうです。もしやと思ってそちらに電話してみたんですが」
「なんだって!それだと病院から逃げたのか?」
「それはまだ分かりません。こちらの警官と病院の職員が懸命に探してますが…」
「我々もそちらに向かう」と言って電話を切った野瀬は高町と森野に言葉が搬送された病院に行くことを言った。
「どこまでも意表を突くお嬢さんだ」
高町は呆れたように言った。
那覇市内にある県立病院。ここでは手の空いた看護師と駆けつけた警官とで病院内を捜索中であった。病院に到着した野瀬達は近くにいた巡査長に状況を聞いた。
巡査長は病院を中心に那覇署の警官が市内を捜索中であることに病院内も巡査長を含む警官3人が病院の職員と共に捜索中だと教えてくれた。
「桂はこの街はよく知らない筈だ。それに体力もまだ回復していないだろうからそう遠くには行かないと思うが」
野瀬は言葉がどう動いているか過去の経験から推測する。
逃げるにしても所持金が無い言葉が沖縄から出る事は出来ないだろう。もしかすると愛しい誠の亡骸を取り戻すために探し歩いてるのかもしれない。だが、言葉が沖縄大学に誠の遺体がある事を知らない。探すにしても当ても無く那覇市内をさ迷っているだろう。
「患者服で歩いているからすぐに見つかりそうですよね」
森野がそう訝しげに言った。地味な患者服でも街で歩けば風変わりで目立つからすぐに見つかるだろうと思っていた。
「見つからないとなると、変な男に捕まったか…」
高町が予想される危険を予測した。患者服で歩く妙な女でも中には平気でナンパしたり邪な目的で連れ去る事もあり得る。
野瀬達が言葉の動きを推理している時に1人の警官が報告に来た。
「那覇港の近くで不審な女が歩いているとの目撃情報が3件ありました」
野瀬はこれが言葉だと思った。ハズレの情報であってもそれを確認して情報を絞るのが刑事の仕事でもある。
「よし、那覇港に行こう」
野瀬が決断し、病院の前で客待ちをしていたタクシーに乗り込んで那覇港へと向かう。
「那覇港の周辺にはヨットハーバーが幾つかあるみたいですね」
森野が窓から見える看板を見て言った。那覇港の近くで8件ものヨットハーバーの店がある。
「桂はまだヨットに伊藤の遺体があると思っているのだろうな…」
野瀬は言葉が哀れに思えた。言葉なりに考えて行動しているのだろうが報われないであろうからだ。
単純に桂家のヨットを探すなら那覇港に向かうのは間違いは無い。あのヨットは那覇港内にある海保の基地にあるからだ。だが、海保が言葉にヨットを明け渡す事は無いだろう。仮に言葉の執念でヨットに辿り着いても本当の目的である誠の亡骸は無い。言葉の行動は絶望しか結末が無い。
「あっ!居ました!桂です!」
高町が車内で叫ぶ。黒髪のロングヘアに白い患者服を着た桂言葉が野瀬達が乗ったタクシーの横を通り過ぎたのだ。心得たタクシーの運転手は「ここで止まりますか?」と聞き野瀬は「お願いします。それと少し待っていてください」と答えた。
タクシーから降りた野瀬達は走った。何故なら言葉は走っていたからだ。言葉の背後には警官2人が言葉を追っていた。野瀬達はその警官と共に言葉を追いかける事となった。
(まったく、衰弱していたのに無理をする)
野瀬は必死に逃げる言葉の後ろ姿を見て呆れるに近い感心をした。
だが、いくら執念があってもこれまで意識不明で衰弱していた言葉の身体は限界を迎えた。段々と言葉の足は遅くなり距離が縮む。けれども身体を引きずるように言葉は前へと進もうとする。
「桂さん。桂言葉さん」
野瀬は言葉のすぐ後ろまで近づいて呼んだ。これに言葉の動きが止まった。
「桂言葉さんだね。病院へ戻ろう」
優しく野瀬が言う。すると言葉はゆっくりと野瀬達の方に向く。
「あの、教えてくれませんか?」
言葉の質問は何か野瀬には分かった。
「伊藤誠君の事だね」
「そうです。誠君はまだヨットの中ですか?だとしたら迎えに行かないと」
「……残念だが伊藤誠はこの街には居ないんだ」
「どこですか?教えてください」
言葉は光を失い曇った瞳で野瀬を見つめながら落ち着いた声で訊いた。
野瀬は思い切って真実を言う事にした。
「伊藤誠は死んだんだよ」
緊張が一気に張り詰める。この一言で言葉が逆上するかもしれない。
「嘘ですよそれは」
「え…」
言葉は落ち着いた態度を崩さすに言った。逆に野瀬達が驚き、言葉の返事の内容に戸惑う。
「誠君を隠してそうやって私を困らせようとするんですね」
「いや、そうでは無いんだ」
「早く教えて下さい。誠君がどこに居るのか」
野瀬が手詰まりになったと見ると高町が動いた。
「ごめんね桂さん。このおじさん冗談が好きだから。伊藤君は病院に居て治療中なんだ」
「それは本当なんですか?」
高町の演技に言葉の曇った瞳に僅かに光が戻ったように見えた。
「あ~本当だよ。けど、重症だからすぐに会えないんだ。すまないけど我慢できるかい?」
「ええ。私病院へ戻ります」
高町のまるで子供をあやすような言い方に言葉は納得した。森野が言葉の側に行き、待たせてあるタクシーへと連れて行く。警官は無線で言葉を確保した事を伝えた。
(これで一区切りだな)
野瀬は森野に付き添われて歩く言葉を見て僅かに安堵した。これでようやく事件の当事者に出会えたのだ。これで事件は本格的な究明に向かうだろう。
だが、事件の究明はすっきりとしたものではない。人間の苦しみと醜さなどの暗部を見る事になるからだ。
「あんなお嬢ちゃんにある闇…」
野瀬は言葉の瞳を曇らせた闇と対面する事に深いため息を静かに吐いた。
言葉の担当医師は1週間入院させて体力を回復させてから住んでいる原巳浜の自宅で療養させるべきだと言った。
いくらほとんど容疑者であると確定していても身体の弱っているのを無理矢理は連行できない。
退院した言葉は両親と共に原巳浜へ帰った。この時点で両親は野瀬から自分の娘がどんな状況で海保に身柄を確保されたか聞かされていた。両親は「少しの間は療養が必要ですから」と野瀬に娘が警察に行くまでの猶予を求めた。野瀬は「まあ、体調が整ってからでないと無理ですからね」とお茶を濁した。
事件から1ヶ月が過ぎた。年を越して正月気分が抜けた頃に野瀬達は桂家を訪れた。
気さくに野瀬に「久しぶりですね」と話しかける言葉はどこか仮面を被った様に見える。
「桂さん。原巳浜署まで来てくれませんか」
野瀬が重い声で言った。
「何故ですか?」
言葉は平然と言った。
「西園寺世界さんに伊藤誠君の事で聞きたい事があってね」
それを聞いた言葉の表情が一気に醒めたものへと変わり野瀬達に背を向けた。
「知りませんよ西園寺さんなんて」
言葉の口調にはどこか怒りが含まれた冷たいものであった。
「少しでも良いから話して欲しいの。お願い」
森野がこう言っても言葉は「私は西園寺さんなんて知りません」と繰り返すだけであった。
逆に「誠君にはいつ会わせててくれるんですか」と厳しい眼差しで聞かれる。
今や言葉をなだめる役になった高町でも彼女を動かす事は出来なかった。
「言葉…」
3人の刑事達が困り果てたのを見かねた言葉の母親である桂真奈美が話しかける。
「言葉。この人達の言うことを聞きなさい」
「どうして?何でこの人達に」
哀れなる自分の娘。今は犯してしまった過ちを償わせなければならないと母は必死に娘に言い聞かせる。
「言葉。何をしたのか分かっているでしょ?」
「私は…私は…」
母親が初めて事件について触れて言葉は動揺した。
「いい加減にしなさい言葉!」
真奈美は一喝した。言葉はそれに打ちのめされたように頑なな態度から黙って大人しくなった。
「お母さん。よろしいですね?」
野瀬は真奈美に確認した。
「娘を…お願いします」
母親の了解を得て森野が言葉に寄り添い任意同行での連行をした。言葉はうつむいて黙ったままだった。
「そうです。私が西園寺さんを殺しました」
原巳浜署での取り調べでは言葉は西園寺世界殺人を認めた。
「西園寺さんは包丁をジャンパーのポケットから取り出そうとしたので私はその西園寺さんの右手を掴んで包丁から手を離させました。そして私は西園寺さんの首筋を鋸で斬りました」
その殺害に至る場面を言葉はすらすらと語った。けれどもその供述を語る口調は無感情であった。凄惨な現場を思い出しているにも関わらず。
「それから貴方はどうしました?」
取り調べをしているのは野瀬だった。一応言葉の近くに森野を置いて女性に対する配慮を形式的にした。
野瀬は世界殺害後の言葉が行ったあのおぞましい行動を自ら語るか質問した。
「私は…」と一旦間を空けた言葉。
「倒れた西園寺さんの身体に鋸でまた斬りました」
「どこを?」
それまでの滑り良い語りから区切って話す言葉の態度が変わった事に野瀬と森野に緊張が高まる。
「私は。西園寺さんの下半身の辺りを切って…開きました」
言葉は簡単にだが世界の下半身を切り裂いた事を語った。
野瀬はここから更に突き詰めるべきか迷った。感情が乱れ始めた言葉がこれから正確な供述をするか疑問だからだ。
「何故西園寺さんの下半身を切り裂いて開いたんだ?」
野瀬は思いきって聞いた。
「……だって、西園寺さんが誠君の子供が出来たなんて言うからですよ」
言葉の双眸はまたどんよりと暗く映えた。
森野は豹変した言葉と事件の真相に驚きを隠せない表情をした。野瀬はよくある事例としてあまり驚く事は無かった。
「西園寺さんは誠君の子供が出来たて言うから私は病院を紹介してちゃんとした検査を勧めたんですよ」
質問された訳でもないのに言葉は語る。野瀬と森野は黙って聞く。
「でも西園寺さんは聞いてくれなかったみたいで…だから私は調べたんです」
暗く重いその瞳は言葉に悪魔が憑依したように野瀬は見えた。この事件が無ければ血生臭い事とは無縁のお嬢さんそのままだっただろうに。
「私は西園寺の下半身を切って中を確認しました。でも、中に誰もいませんでした」
言葉の言うとおり世界は妊娠していなかった。それは司法解剖で確認されている。
森野は言葉の確認方法を想像したのか車に酔ったように顔色が良く無い。
「それからどうしました?」
野瀬は顔色を変えずに取り調べを続ける。
「私は誠君と一緒に学校を出ました」
ここで初めて誠が供述に現れた。しかし、世界殺害の時にはもう誠は死亡している。それなのに誠と一緒に居たかのような事を言うのだろうか?と野瀬は眉をひそめた。
「伊藤さんと一緒に何処へ行ったのですか?」
野瀬は言葉に合わせる事にした。
「ヨットハーバーです。約束していたんです二人でヨットでクルーズするって」
「そうでしたか。では、今日はここまでにしましょう」
野瀬は取り調べを終わらせた。言葉は署内の拘置所に婦人警官二人に連れられて向かう。
この取り調べで言葉は世界殺害を認めた。これにより言葉は任意同行による拘留から裁判所から逮捕状が発布されて逮捕となる。
罪状はここでは世界殺害による殺人罪である。