架空戦記小説と軍事の記事を中心にしたブログです
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永禄12年6月。京への上洛を果たした小笠原祥子。
祐巳と瞳子の軍勢も到着し、京を中心とした近畿地方への足掛かりを築いた。
「浅井家との同盟を結んで参りました。これで本願寺攻めに
全力を振り向けますよ」
「こっちもさっき禁裏から帰った所よ。ようやく従七位下東市佑
の官位を貰えたわ」
「上洛してから順調ですね。お姉さ・・・いやいや、御館さま」
「まだこれからよ。ここは本願寺の勢力圏なのだから。
同盟を結んだ浅井も本願寺と縁が切れたか怪しいものだわ」
「申し上げます!本願寺の軍勢が石山御坊より出陣!京へ向かっています」
「ただちに出陣!京には入れさせない!」
石山本願寺の本拠地である石山御坊より出陣したのは当主である本願寺顕如自ら率いる軍勢だった。
本願寺にとっては懐に飛び込んだ敵という軍事的な意味もあったが、何よりもカトリックの信仰がある小笠原家を畏怖すべき宗教上の敵として見ていた。
出陣に辺り顕如は諸将や兵らに「これより邪教の軍勢より京を取り戻す」と檄を飛ばしたという。
まさに宗教戦争の様相を見せ始めた小笠原家と石山本願寺との戦い。
その初めてとなる大規模な合戦が淀川を挟んで展開された。
両軍とも退かず攻め立てる。小笠原軍は京を失いかねない。本願寺軍は勢力圏の中心地から小笠原軍を撃退して威信を保てるかどかの瀬戸際である。
淀川の下流が濃い血の色で満ちた時に雌雄は決した。
小笠原軍の勝利であった。
「まるで葬列みたいだわ・・・」
戦場より離脱する本願寺軍。その中でも統制を保つ軍勢の姿を見て祥子は思った。
その祥子の予感は当たっていたと言える。
この合戦で石山本願寺の大きな柱である本願寺顕如が戦場に散ったのだ。これを受けて本願寺は新たな当主に本願寺証恵を迎えて小笠原家との戦いを続ける事を誓った。
淀川合戦より一週間後 備前天神山城
「もうこれ以上は進めません・・・」
「ここが潮時ね。全軍撤退!」
本願寺の備前天神山城の攻略が始まった。堅陣を知略を尽くした策では無く戦力の大量投入という人海戦術に打って出た。
志摩子と乃梨子の先鋒隊。これが天神山城の防御力である門を壊し、守備兵力を削ぐのだ。
激しい本願寺勢の抵抗で二の丸でさえも近づけ無かった藤堂隊であったが聖率いる本隊が進む道を切り開くという目的は達した。
「行けるぞ!進め!進めえ!」
志摩子・乃梨子隊が与えたダメージは予想以上に大きく。入れ替わりで突入した佐藤聖率いる白薔薇衆主力は次々と守備兵を蹴散らし城内の門を開いて軍勢は進み、とうとう遠くにさえ感じた本丸を落とし天神山城は陥落した。
この6月に起きた二つの小笠原家と石山本願寺の戦いは勢力図を塗り替える分岐点となった。
だが、依然として本願寺は強大な勢力を保ち対峙している。
その裏では近江を巡って浅井と朝倉家が攻防を繰り広げていたが、美濃を制覇した織田信長が浅井と朝倉の両方を呑み込むように滅ぼして近江を勢力圏に置いた。
近畿の戦場は新たな勢力を迎えていた。
「ならば織田家と同盟を結びます」
小笠原家には二大勢力を相手取る力は無かった。本願寺との雌雄がまだ決まらないこの時勢では祥子には選択肢は無かったと言える。
永禄12年7月。小笠原家と織田家の同盟が成立。
この時に祥子と面会した信長は後に家臣へこう語ったと言われる。
「あの女は野心に満ちておるわ。ワシ以上に」
祐巳と瞳子の軍勢も到着し、京を中心とした近畿地方への足掛かりを築いた。
「浅井家との同盟を結んで参りました。これで本願寺攻めに
全力を振り向けますよ」
「こっちもさっき禁裏から帰った所よ。ようやく従七位下東市佑
の官位を貰えたわ」
「上洛してから順調ですね。お姉さ・・・いやいや、御館さま」
「まだこれからよ。ここは本願寺の勢力圏なのだから。
同盟を結んだ浅井も本願寺と縁が切れたか怪しいものだわ」
「申し上げます!本願寺の軍勢が石山御坊より出陣!京へ向かっています」
「ただちに出陣!京には入れさせない!」
石山本願寺の本拠地である石山御坊より出陣したのは当主である本願寺顕如自ら率いる軍勢だった。
本願寺にとっては懐に飛び込んだ敵という軍事的な意味もあったが、何よりもカトリックの信仰がある小笠原家を畏怖すべき宗教上の敵として見ていた。
出陣に辺り顕如は諸将や兵らに「これより邪教の軍勢より京を取り戻す」と檄を飛ばしたという。
まさに宗教戦争の様相を見せ始めた小笠原家と石山本願寺との戦い。
その初めてとなる大規模な合戦が淀川を挟んで展開された。
両軍とも退かず攻め立てる。小笠原軍は京を失いかねない。本願寺軍は勢力圏の中心地から小笠原軍を撃退して威信を保てるかどかの瀬戸際である。
淀川の下流が濃い血の色で満ちた時に雌雄は決した。
小笠原軍の勝利であった。
「まるで葬列みたいだわ・・・」
戦場より離脱する本願寺軍。その中でも統制を保つ軍勢の姿を見て祥子は思った。
その祥子の予感は当たっていたと言える。
この合戦で石山本願寺の大きな柱である本願寺顕如が戦場に散ったのだ。これを受けて本願寺は新たな当主に本願寺証恵を迎えて小笠原家との戦いを続ける事を誓った。
淀川合戦より一週間後 備前天神山城
「もうこれ以上は進めません・・・」
「ここが潮時ね。全軍撤退!」
本願寺の備前天神山城の攻略が始まった。堅陣を知略を尽くした策では無く戦力の大量投入という人海戦術に打って出た。
志摩子と乃梨子の先鋒隊。これが天神山城の防御力である門を壊し、守備兵力を削ぐのだ。
激しい本願寺勢の抵抗で二の丸でさえも近づけ無かった藤堂隊であったが聖率いる本隊が進む道を切り開くという目的は達した。
「行けるぞ!進め!進めえ!」
志摩子・乃梨子隊が与えたダメージは予想以上に大きく。入れ替わりで突入した佐藤聖率いる白薔薇衆主力は次々と守備兵を蹴散らし城内の門を開いて軍勢は進み、とうとう遠くにさえ感じた本丸を落とし天神山城は陥落した。
この6月に起きた二つの小笠原家と石山本願寺の戦いは勢力図を塗り替える分岐点となった。
だが、依然として本願寺は強大な勢力を保ち対峙している。
その裏では近江を巡って浅井と朝倉家が攻防を繰り広げていたが、美濃を制覇した織田信長が浅井と朝倉の両方を呑み込むように滅ぼして近江を勢力圏に置いた。
近畿の戦場は新たな勢力を迎えていた。
「ならば織田家と同盟を結びます」
小笠原家には二大勢力を相手取る力は無かった。本願寺との雌雄がまだ決まらないこの時勢では祥子には選択肢は無かったと言える。
永禄12年7月。小笠原家と織田家の同盟が成立。
この時に祥子と面会した信長は後に家臣へこう語ったと言われる。
「あの女は野心に満ちておるわ。ワシ以上に」
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