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祥子が石見や因幡で毛利を攻めている時に支倉令と島津由乃の黄薔薇衆は安芸と備前に進撃していた。
永禄11年7月に由乃が安芸の鶴首城を、10月には令が備前国の津山城を攻略した。
この2つの城を攻略した事で小笠原家は新たな敵との戦いが始まったのである。
それは石山本願寺。
この時点で近畿地方を中心に5カ国もの版図があり武将も50人を越える最大の力があった。そんな強敵と祥子は対峙したのである。
永禄12年2月 永禄安芸国鶴首城
本願寺軍の抑えに黄薔薇衆のみならず佐藤聖・藤堂志摩子・二条乃梨子からなる白薔薇衆が鶴首城に着陣した。
この時。佐藤聖は部将に昇進していた。
「にしても厄介な城だねえ」
「これでは簡単に前には進めそうに無いわ」
二人の目の前にはある図面が広げられている。
備前の天神山城の縄張りや構造が描かれている。それを簡単に描くとこうである。
城へ突入すると赤い部分で攻撃側は大打撃を被る。敵の前の前を
横切って行くからだ。それを防御側は高い本丸と二の丸から鉄砲と
弓矢で撃つ。攻者にとって地獄の間がそこにあった。
しかも本丸までは城を半周して回らねばならない。
「たった今戻りました。天神山城への工作失敗しました・・・申し訳ありません」
「いいのよ乃梨子。忍び破りの城だもの仕方ないわ」
「乃梨子。ちょっと聞きたい事があるんだけど」
「何でしょう?」
「こんな事を聞くのは編だけど本願寺と今戦っているけど気持ちは大丈夫?」
二条乃梨子。彼女はカトリックの信仰が強い小笠原家にあって仏像をこよなく愛好する趣味を持っていた。
聖は現在対峙している本願寺との戦いにその好事が引っかからないか気になっていた。
「大丈夫です。仏像と戦は関係ないと思っていますから」
「乃梨子を疑うなら私も疑われないといけないわ」
一方の志摩子は寺の住職の娘である。見方によっては乃梨子以上に仏教信仰に近いものがる。
「二人とも疑ってすまない。だけど、本願寺との戦いは今までとは違う。新たに加わった武将が新興勢力の私達より昔からの威光が強い本願寺にいつ寝返るか分からない。信仰とは怖いものであるからね」
鶴首城や津山城攻略戦で今まで以上にはあまり軍門に下る武将は居なかった。逆に本願寺からの調略でまた本願寺に帰る武将も出ていた。こうした状況から祥子は白薔薇衆も送り備前戦線を安定させようとしていた。
一方で祥子率いる赤薔薇衆を中心にした小笠原家本隊は鳥取城を攻略し毛利家を滅ぼした。
白薔薇衆と黄薔薇衆が足止めを受けていたが、赤薔薇の戦いは好調であった。
因幡を平定すると上杉家の勢力下にある山城国へと進撃。その城を次々と攻略した。
永禄12年5月 山城国八上城
「今や目と鼻の先に京の都があるのね」
京より北方の山岳地帯にある八上城。祥子は山々の向こうにある煌びやかな京の都を思い浮かんだ。
肥後半国から出発してここまで進み続けたのである。感慨深いものがあるのだ。
「申し上げます。長宗我部の軍勢が紀州雑賀城を攻略したそうです。
これに本願寺軍は京の兵力をも紀州の防衛に回したようです」
四国で島津家と戦っている筈の長宗我部元親は何故か紀伊水道を越えて紀伊国の雑賀城を攻略した。だがこの兵力の無駄使いは長宗我部家の命運を縮める事となる。逆襲に出た本願寺と四国で追い詰める島津とで挟み撃ちとなったからだ。
「好機ね。出陣よ!今から京へ上洛するわ!
長宗我部に京は渡さないわ」
実は小笠原家は中国攻めに集中すべく長宗我部と同盟を結び側面の安全を図っていた。だが、島津は長宗主我部と敵対していた。
もしも長宗我部が先に京に上洛してしまうと同盟破棄という手段でしか上洛は叶わなくなる。
「ですが、祐巳様がまだ帰っておられませんが・・・」
この時に祥子を支える右腕の部将である福沢祐巳は建部山城攻略を終えたばかりであった。
「・・・・・・・・・仕方ないわ。好機を逃してはならないもの」
多少の心残りを持ちつつも祥子は京へ向かって出陣した。軍勢は急遽の出陣に慌てあがらも士気は上洛するとあって高くなった。
(↑京の室町御所を攻める小笠原軍)
本願寺は中国と紀州へ兵力を向けた為に室町御所の兵力は少なく。1万近い小笠原軍に圧倒されてたちまち陥落した。
永禄12年5月。小笠原祥子上洛。これが新たな局面へと移り変わる時であった。