架空戦記小説と軍事の記事を中心にしたブログです
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京に上洛し、本願寺に大打撃を与え、天神山城を攻略した小笠原家。
だが近畿における本願寺との戦いはまだ小笠原家有利とは言い難い状態であった。
上の地図は天神山城攻略時の近畿地方での小笠原家と本願寺の支配する城を示したものだ。
青が小笠原家。赤が本願寺である。
京を除けば本願寺はほとんどの近畿地方にある領地を維持していた。長宗我部軍に攻略された紀州の雑賀城はあっけなく本願寺軍に奪還されていた。
四国の阿波や讃岐に長宗我部を追って本願寺軍が上陸して長宗我部家を滅ぼしていた。
まさに本願寺の勢力は今だ衰えていないのである。
「石山御坊は周囲に沼地が広がる天然の要害。
ここを攻めるのは簡単では無さそうでが・・・」
「けど、姫路を攻めるのも難しい事だわ。姫路の兵力と防御もかなりのもの
白薔薇達だけでは荷が重いわ。それに下手をすれば四国の本願寺軍が
天神山城に攻め入るだろうし・・・。ましてや私達が京を空けて姫路攻略の
援軍 に行くのは論外よ」
「では、調略で本願寺の家臣を寝返らせますか?」
「そんな悠長な時は無いわ。時が過ぎればますます本願寺の勢力は広がるばかり
石山へは力攻めで行くわ」
この無謀とも言える小笠原軍の石山御坊攻めが始まった。本願寺軍は大砲をも据え、多くの鉄砲隊で待ち構えた。何よりも如顕の仇を討つとして士気は高かった。
「激しく抵抗をしていますがどうやら城内の兵力はあまり多くないようです」
「四国にまだ多くの戦力を裂いてしまったようね。この好機はなかなか無いわ
一気に城内へ進むのよ!」
狂信的な本願寺軍の抵抗も数の劣勢を覆す事は出来なかった。城内への小笠原軍の突入を許すと本願寺軍は総崩れとなった。
勝利をあまり期待出来なかった石山攻めであったが短期間の内に攻略を成した。永禄12年10月の事である。
だが、同じ頃本願寺軍は思わぬ反撃をしていた。
備前 佐藤軍本陣
「たっ大変!別の本願寺軍が瀬戸内海より上陸したわ!」
「なっなんだって!こっちは囮か」
姫路城から出陣した本願寺軍を迎え撃っていた佐藤聖率いる白薔薇衆の軍勢。しかしその隙を狙うように阿波から瀬戸内海を渡って別の本願寺軍が備前に上陸した。
「狙いは天神山城だろうね。すぐに戻って守りを固めないと」
姫路からの敵軍を撃退した白薔薇衆は天神山城へすぐさま駆けて戻る。
しかし・・・
「敵が吉田郡郡山城を攻め落としました!」
「ええ!」
まさに裏をかかれてしまった佐藤聖。本願寺軍は天神山城を横切り西へ向かい安芸の吉田郡郡山城を攻め落とした。
急いで安芸へ向かい郡山城を奪還せんとする白薔薇衆。2ヶ月の攻防を経て郡山城は小笠原家の手に戻ったが本願寺の強い抵抗の意志を示す出来事であった。
永禄13年を迎えた。
小笠原家は摂津の多聞城を毛利元就率いる軍勢が攻め落とし、越前では山名祐豊率いる軍勢が後瀬山城を攻略。近畿と北陸で勢力を拡大した。
春になると年号が永禄より元亀に変わる。
その元亀元年となった時に近畿での本願寺の戦いは佳境に入った。
小笠原軍は摂津の高山城へ10800の赤薔薇衆の軍勢を率いて攻めた。
(↑高山城での戦いの様子)
対する本願寺軍は9600。本願寺軍がやや劣勢であったが城外での決戦を挑んだ。
大友義鎮などの一部の隊が敗走し、祥子本陣にま本願寺軍は迫った。
「本陣といえど敵は討つ!皆の者参るぞ!」
「祥子様の本陣までもが戦っている。もっと頑張らないと
なんとしてでもここは退いてはならない!」
淀川合戦以上の激戦であった。積極的に攻め立てる本願寺軍に祥子も本陣の兵を率いて太刀を振るい戦う。
双方の剣先に怒号と悲鳴が幾重も重なる正面からのぶつかり合い。だが松永久秀の別働隊が本願寺軍の側面を攻めると形勢は徐々に小笠原軍有利に傾く。
正面と側面に兵力が分かれた本願寺軍は兵力を削られとうとう潰走する隊が出始めた。
「敵が崩れた!一気に高屋城まで進むわよ!」
「待って下さい高山城より軍使が来ました。
開城するそです」
本願寺軍の士気は喪失していた。高屋城は戦う兵に力が無いと悟り開城を決意した。元亀元年4月の事である。
その後も本願寺軍は摂津で一揆勢を繰り出したりと抵抗を続けた。しかしその力はもはや逆転出来るものでは無くなっていた。四国では島津が本願寺の城を攻めついには紀州の雑賀城まで奪った。
元亀元年10月 播磨姫路城
「軍勢の半数を失ったのですよ。ここは退くべきなのです!」
「くっそう、二の丸まで来た言うのに・・・」
佐藤聖率いる白薔薇衆は四国でほとんどの本願寺の勢力が島津によって撃退された事から側面の不安が無くなり姫路城を攻めた。
今や昔日の面影も無く姫路城のみとなった本願寺軍だったが抵抗は衰えない。いや、最後の戦いだからこそ激しく戦った。
本願寺軍が放つ弓矢に鉄砲の雨を受けながらも潜り抜けて姫路城内奥深くに侵入した白薔薇衆であったが半数の兵を失い進退極まっていた。
たとえここで退いてもどれだけ生き残れるか。だが、このまま進んでも討ち死に。果たしてどうするか・・・
「柳生宗厳の隊が本丸へ突入しました!」
「敵の動きが乱れた。ようし、このまま攻撃続行だ」
血路を開かんと動いた柳生宗厳。それが功を奏した。
この柳生隊による突入が本願寺軍の士気を奪い混乱させた。
落城間近となり本願寺証恵は姫路城から阿波の十河城へ落ち延びてから姫路城は開城した。
その後。本願寺の残党が立て籠もる十河城も翌年1月に島津軍に攻められて落城。本願寺は戦国の覇権争いから姿を消す事となった。
だが近畿における本願寺との戦いはまだ小笠原家有利とは言い難い状態であった。
上の地図は天神山城攻略時の近畿地方での小笠原家と本願寺の支配する城を示したものだ。
青が小笠原家。赤が本願寺である。
京を除けば本願寺はほとんどの近畿地方にある領地を維持していた。長宗我部軍に攻略された紀州の雑賀城はあっけなく本願寺軍に奪還されていた。
四国の阿波や讃岐に長宗我部を追って本願寺軍が上陸して長宗我部家を滅ぼしていた。
まさに本願寺の勢力は今だ衰えていないのである。
「石山御坊は周囲に沼地が広がる天然の要害。
ここを攻めるのは簡単では無さそうでが・・・」
「けど、姫路を攻めるのも難しい事だわ。姫路の兵力と防御もかなりのもの
白薔薇達だけでは荷が重いわ。それに下手をすれば四国の本願寺軍が
天神山城に攻め入るだろうし・・・。ましてや私達が京を空けて姫路攻略の
援軍 に行くのは論外よ」
「では、調略で本願寺の家臣を寝返らせますか?」
「そんな悠長な時は無いわ。時が過ぎればますます本願寺の勢力は広がるばかり
石山へは力攻めで行くわ」
この無謀とも言える小笠原軍の石山御坊攻めが始まった。本願寺軍は大砲をも据え、多くの鉄砲隊で待ち構えた。何よりも如顕の仇を討つとして士気は高かった。
「激しく抵抗をしていますがどうやら城内の兵力はあまり多くないようです」
「四国にまだ多くの戦力を裂いてしまったようね。この好機はなかなか無いわ
一気に城内へ進むのよ!」
狂信的な本願寺軍の抵抗も数の劣勢を覆す事は出来なかった。城内への小笠原軍の突入を許すと本願寺軍は総崩れとなった。
勝利をあまり期待出来なかった石山攻めであったが短期間の内に攻略を成した。永禄12年10月の事である。
だが、同じ頃本願寺軍は思わぬ反撃をしていた。
備前 佐藤軍本陣
「たっ大変!別の本願寺軍が瀬戸内海より上陸したわ!」
「なっなんだって!こっちは囮か」
姫路城から出陣した本願寺軍を迎え撃っていた佐藤聖率いる白薔薇衆の軍勢。しかしその隙を狙うように阿波から瀬戸内海を渡って別の本願寺軍が備前に上陸した。
「狙いは天神山城だろうね。すぐに戻って守りを固めないと」
姫路からの敵軍を撃退した白薔薇衆は天神山城へすぐさま駆けて戻る。
しかし・・・
「敵が吉田郡郡山城を攻め落としました!」
「ええ!」
まさに裏をかかれてしまった佐藤聖。本願寺軍は天神山城を横切り西へ向かい安芸の吉田郡郡山城を攻め落とした。
急いで安芸へ向かい郡山城を奪還せんとする白薔薇衆。2ヶ月の攻防を経て郡山城は小笠原家の手に戻ったが本願寺の強い抵抗の意志を示す出来事であった。
永禄13年を迎えた。
小笠原家は摂津の多聞城を毛利元就率いる軍勢が攻め落とし、越前では山名祐豊率いる軍勢が後瀬山城を攻略。近畿と北陸で勢力を拡大した。
春になると年号が永禄より元亀に変わる。
その元亀元年となった時に近畿での本願寺の戦いは佳境に入った。
小笠原軍は摂津の高山城へ10800の赤薔薇衆の軍勢を率いて攻めた。
(↑高山城での戦いの様子)
対する本願寺軍は9600。本願寺軍がやや劣勢であったが城外での決戦を挑んだ。
大友義鎮などの一部の隊が敗走し、祥子本陣にま本願寺軍は迫った。
「本陣といえど敵は討つ!皆の者参るぞ!」
「祥子様の本陣までもが戦っている。もっと頑張らないと
なんとしてでもここは退いてはならない!」
淀川合戦以上の激戦であった。積極的に攻め立てる本願寺軍に祥子も本陣の兵を率いて太刀を振るい戦う。
双方の剣先に怒号と悲鳴が幾重も重なる正面からのぶつかり合い。だが松永久秀の別働隊が本願寺軍の側面を攻めると形勢は徐々に小笠原軍有利に傾く。
正面と側面に兵力が分かれた本願寺軍は兵力を削られとうとう潰走する隊が出始めた。
「敵が崩れた!一気に高屋城まで進むわよ!」
「待って下さい高山城より軍使が来ました。
開城するそです」
本願寺軍の士気は喪失していた。高屋城は戦う兵に力が無いと悟り開城を決意した。元亀元年4月の事である。
その後も本願寺軍は摂津で一揆勢を繰り出したりと抵抗を続けた。しかしその力はもはや逆転出来るものでは無くなっていた。四国では島津が本願寺の城を攻めついには紀州の雑賀城まで奪った。
元亀元年10月 播磨姫路城
「軍勢の半数を失ったのですよ。ここは退くべきなのです!」
「くっそう、二の丸まで来た言うのに・・・」
佐藤聖率いる白薔薇衆は四国でほとんどの本願寺の勢力が島津によって撃退された事から側面の不安が無くなり姫路城を攻めた。
今や昔日の面影も無く姫路城のみとなった本願寺軍だったが抵抗は衰えない。いや、最後の戦いだからこそ激しく戦った。
本願寺軍が放つ弓矢に鉄砲の雨を受けながらも潜り抜けて姫路城内奥深くに侵入した白薔薇衆であったが半数の兵を失い進退極まっていた。
たとえここで退いてもどれだけ生き残れるか。だが、このまま進んでも討ち死に。果たしてどうするか・・・
「柳生宗厳の隊が本丸へ突入しました!」
「敵の動きが乱れた。ようし、このまま攻撃続行だ」
血路を開かんと動いた柳生宗厳。それが功を奏した。
この柳生隊による突入が本願寺軍の士気を奪い混乱させた。
落城間近となり本願寺証恵は姫路城から阿波の十河城へ落ち延びてから姫路城は開城した。
その後。本願寺の残党が立て籠もる十河城も翌年1月に島津軍に攻められて落城。本願寺は戦国の覇権争いから姿を消す事となった。
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