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架空戦記小説と軍事の記事を中心にしたブログです
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元亀2年(1571年)1月。島津家は阿波国を平定した事で四国全体を治める事となった。
九州から近江を除く近畿地方までは小笠原家と島津家が領土を二分する地となった。
島津家は九州の南半分と四国。小笠原家は九州の北半分に中国地方・近畿地方に北陸の一部にまで版図を広げていた。
その版図の隣には成長著しい織田家があった。徳川家と小笠原家との同盟により側面の脅威を受けない事から織田信長は美濃の斉藤家に近江で争い続けていた浅井家と朝倉家を滅ぼし、上杉家が勢力を伸ばす越前と加賀を奪取した。
まだ東日本では武田家・上杉家・北条家・伊達家という有力大名が割拠していたが織田家の伊勢湾から日本海に至る勢力圏は小笠原家にとってはそれまでの戦いの骨休みをするには良い壁となった。

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「さて、ここで我が小笠原家の陣容を見てみましょうか」








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「支配している国は11カ国。武将は50人以上は居ます。
 兵力は5万人以上になりました」





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「肥後で大友や龍造寺と戦っていた時とは大違いね。
 日本では最大の力ではないかしら?」








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「その通りです。威信度も120。
 他に並ぶのは島津家と織田家ですね」





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「その小笠原家を支えるのは家臣達。
祐巳に白薔薇衆と黄薔薇衆は本当によくやってくれたわ」







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「武将達の状況では、まず白薔薇衆の筆頭である佐藤聖様が永禄11年(1568年)5月に侍大将から部将になったのが最初で、それから8月に私と黄薔薇衆筆頭の支倉令様が、永禄12年(1569年)には瞳子が、元亀元年には志摩子が部将に昇進しました」



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「我が一門もこれで強化できた訳だけど、臣下になった家臣は面白い者が集まったものだわ。
永禄12年には南光坊天海が家臣になった。京での朝廷の交渉役にして今では私は正六位下上野介の官位を貰えたわ」





石山御坊を落とした時点で小笠原家にはかなりの経済的余裕が生じていた。
周防や出雲の金山に九州の博多、摂津の堺、京の都という商業都市。この2つの要素が小笠原家の財源を生み出した。
この財産は京の朝廷に送られ小笠原家との関係向上に使われた。そしてそれらの交渉役が天海であった。他にも前田玄似(史実では豊臣家五奉行の一人)岡本禅哲(史実では佐竹家家臣)京極高吉(史実では足利家家臣)を室町御所に置いて朝廷への献上。または京での家宝買いに使った。
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「武将を見てみると、当然ですけどかつて大友・龍造寺・毛利・尼子の武将が多いですね。
と言うより毛利元就や大友義鎮・尼子義久・相良義陽と言ったかつてのそれぞれの当主達についこの前までの宿敵だった本願寺証恵も居るし、足利義輝に足利義昭の将軍家兄弟までも・・・あれ?」


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「どうしたの祐巳?」








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「確か足利義輝は永禄8年にはもう亡くなっている筈ですよね。史実だと」






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「この世界じゃ義輝を殺した三好氏は本願寺に滅ぼされたのよ。だから永禄の変は起こらなかった。それに74の戦闘能力と90の采配能力を持つ武将だから死んで欲しくはないわ」





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「そういえば、永禄の変の黒幕と言われる松永久秀が家臣で居たような・・・」

※義輝を襲撃して殺害した永禄の変は三好家一族の重臣である三好三人衆と松永久秀によって行われた。その三好三人衆を牛耳っていたのが久秀であった。



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「そういえばそうね。だけど戦国では裏切りも常だわ。裏切られたのなら私はそれまでの人物だったに過ぎない。
それに久秀以外にも、明智光秀・荒木村重とか史実で裏切りをした武将を小笠原家は抱えているのよ」

※明智光秀は言わずと知れた信長を裏切った本能寺の変の実行者。
※荒木村重は摂津の池田家から織田家に寝返った武将だったが天正6年に叛旗を翻す。信長と戦い負けるが、信長亡き後は茶人となる。


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「ちょっと心配になりますね。謀反とか起きないか・・・」





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「だからこそ頼りにしているわ祐巳」







少し心配なメンバーではある小笠原家だが、他にも柳生新陰流伝承者の柳生宗厳に「我に七難八苦を与えたえ」の言葉で有名な尼子家家臣の山中鹿之助に戦国時代における伊賀忍術の祖と言われる百地三太夫(百地丹波ではないかとも言われる)が居たりとバラエティーに富んだ顔ぶれとなった。

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「たっ!大変です祥子様!
 安芸の吉田郡郡山城が佐世清宗という武将に乗っ取られました!」






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「天海をすぐに呼びなさい!朝廷に佐世を朝敵にして貰うわ」





元亀2年4月。空にしていた(武将が誰も居ない)安芸の吉田郡郡山城が佐世清宗の乗っ取られた。天海が祥子の名を受けて朝廷に佐世清宗を朝敵にするように働きかけこれは承諾された。
朝敵にされた事が相当にこたえたのか7月に佐世清宗は亡くなり羽床資載という武将が後を継いだ。

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「大変です!今度は周防の高嶺城が山名豊国という武将に乗っ取られました!」



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「まったく次から次に・・・背後の備えを怠っていたわ」






6月には同じく空城となっていた周防の高嶺城が乗っ取られた。(いや~武将は全部近畿に集めてしまったからねえ)
周防の金山を失う事にもなる高嶺城の失陥はまさに看過できない事態だ。家老の相良義陽率いる軍勢が郡山城と高嶺城の奪還に向かった。
しかし、郡山城は島津家の軍勢が攻めて奪った。
10月には高嶺城を奪還。山名豊国は斬首にした。
こうして小笠原領簒奪事件は安芸を島津家に与えるという苦い結果にはなったが、金山を失わないという経済的な面は守る事が出来た。

時は遡り
元亀2年6月の室町御所。
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「祐巳。出陣の準備を皆に伝えなさい」








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「安芸と周防への出陣ですね」





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「それはもう、相良に命じたから良いのよ。
今度は近江と越前へ攻め入る」







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「まさか、祥子様。織田家を・・・」




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「織田との同盟はあくまで本願寺戦に集中する為。今はもう
同盟を続ける理由は無いわ」





こうして小笠原家は織田家との同盟を破棄した。
同盟を破った事に内外では動揺が広がったが天下統一に駆け出す小笠原家を止める事は出来ない。
しかし、史実では戦国時代の覇者とも言える織田信長に祥子は果たして勝てるのか?
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