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龍造寺・大友・島津の襲来を防いだ小笠原祥子であったが、それから幾度も龍造寺家との合戦が続いた。
この為に肥後統一すら出来ず永禄4年から5年(1561年~1562年)は龍造寺との戦いに暮れた。
「大変です!大友が2ヶ月で我らとの同盟を切りました!」
「戦国時代だからって不誠実にも程があるわ!」
龍造寺を牽制しようと結んだ大友との同盟も友好43で短命に終わった。
翌年永禄6年1月には龍造寺の疲弊した所を狙って人吉城を攻略。ようやく祥子は肥後の国の主となった。
4月にはその龍造寺家が大友家によって滅ぼされる。
「祥子様。島津と同盟を結ぶ事が出来ました」
「龍造寺が滅んだおかげで島津も大友と戦う事になって
流れが変わったわね」
永禄6年5月。小笠原家は島津と同盟を結んだ。(友好75)
祥子の言うとおり九州での勢力図は龍造寺家滅亡で変わろうとしていた。
7月。宣教師ルイス・フロイスと祥子が謁見。祥子はキリスト教の領内布教を認めた。
この時から祥子や小笠原家家臣はロザリオを身に着ける習慣が始まり、隈本城内に立てたマリア像の前で祥子が祐巳の服装を直す姿が見られるようになったと言われる(笑)
「島津が豊後の府内城を落としたから東から肥後が襲われる
心配は無くなったわ。肥前へ攻め入るは今!」
永禄7年3月。小笠原軍は肥前佐賀城を攻略。
「この勢いに乗じて立花山城を攻めるわよ!
あの城を落とせば商業の街である博多が手に入る」
6月。佐賀城攻略の意気も高らかに小笠原軍は立花城へと進軍した。
「まだ、攻めるには早いと思うけど・・・」
志摩子の不安は的中した。立花山城は大友軍が守りを固め、矢に鉄砲の弾が雨あられと小笠原軍に降り注ぎ場内奥へ進む事に兵力は磨り減る。
「こんなに防備が固いなんて!
あ、待ちなさい!逃げてはなりません!」
大友軍は国崩しと呼ばれる大砲をも使い小笠原軍を追い詰める。兵の士気は下がり逃亡兵が相次いだ。
ここに至り祥子も退却を決断せざる得なかった。
「しばらくは立花山城は諦めるわ。取りあえず平戸城を落として
肥前の攻略しましょう・・・」
(相当あの敗北が応えているみたい・・・)
「佐藤聖様率いる軍勢が平戸城を攻略しました。
それと、毛利軍が筑前城井谷城を落としました」
10月には肥前を統一。しかし、12月には毛利軍が瀬戸内海を越えて筑前の大友の城を落とした。これにより九州は小笠原・島津・大友・毛利が入り乱れる状態となった。
翌永禄8年4月。津田監物なる鉄砲鍛冶が佐賀城を訪れ、8月には鉄砲鍛冶の村が佐賀城城下にできた。
「申し上げます。立花山より大友の大軍が出陣。
城井谷城へと向かっているようです」
「好機ね。立花山城を落とす好機だわ」
小笠原軍は夏の日差しを受けながら再び立花山城へと向かう。雪辱を晴らさんが為に。
「島津軍が先に仕掛けたけど撃退されたね。
だけど、大友軍もダメージも少ないない筈」
「敵に休ませる暇を与えるな!一気に攻めよ!」
前回とは違い兵力が少ない立花山城。島津軍との戦いの疲れが残る大友軍は小笠原軍を食い止められず本丸までの侵入を許し、落城した。
ここに大友家は滅亡した。
「おめでとうございますお姉様。じゃなくて!お館様!
博多を手中にする事で我らの経済力も大きくなりますね」
「ありがとう祐巳。これで小笠原家も大きな基盤を得る事が出来たわ。
これで朝廷との友好を高める余裕が出来た」
9月に立花山城を攻略すると、祥子は肥前・肥後の2カ国に筑前の半分を有する大名となっていた。
「我が主君小笠原祥子より帝へ献上致しまする」
12月に瞳子は京の内裏へ参内。金1500を献上した。
翌永禄9年1月。小笠原軍は城井谷城を落とした。これにより筑前を平定した祥子。九州には同盟を結んだ島津しか残っていない。
果たしてこれから祥子と薔薇の家臣達の行方は如何に・・・。
(九州の北半分が版図となった小笠原家の図。
最初の頃と比べると凄い巻き返しである)
(立花山城攻略時点での小笠原家の威信。
支配36 名声64 本城3 支城2 総合威信値100)
(連戦により昇格した面々。山百合会メンバーは全員侍大将になった)
ちなみに本プレイでは
祥子・祐巳・瞳子・聖・志摩子・乃梨子・令・由乃を武将として作った。
本当は蓉子さんも作りたかったが、漢字の「蓉」が無くて断念orz