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明治時代の帝政ロシアは不凍港を求めて南下政策を行っていた。
ヨーロッパと陸で繋がっていたロシアではあったが、海上交易による莫大な利益の窓口として冬季に氷で塞がらない港を欲していた。
露土戦争(1768年 - 1774年)でオスマントルコ帝国からクリミア半島を割譲。黒海の窓口を得る。19世紀にはコーカサス地方を併合し西の南下政策は進んだ。
そして東での南下政策。幕末に樺太・千島を日露の国境とした。明治になると千島を日本・樺太をロシアと交換する条約を締結。1860年に清国とは太平天国の乱で結ばれた北京条約でアムール川(黒竜江)の以北、ウムール川の以東の外満州を割譲。1900年の北清事変では日本や欧米列強の出兵に協力するのを機会に満州全土を占領した。これに日英が危機感を抱いて日英同盟が結ばれる事となる。
日英同盟の圧力でロシアは満州から撤兵すると約束したが、期限が過ぎても全部隊の撤兵せず日露の危機感を煽り日本は特に保護国としていた朝鮮と満州が接する緑鴨江朝鮮側河口の付近でロシアが大規模な森林事業を展開。日本の権益を脅かす形となり日本の世論はロシアと戦うべしと言う気運が強くなった。政府内は開戦と和平で割れていたが、ロシアの皇帝ニコライ2世が主戦論に同調。ここに日露は妥協点を失い1904年(明治37年)2月6日に日本政府はロシアへ国交断絶を通告。日露戦争が始まるのである。
日露戦争での第一撃は日本軍であった。
国交断絶から3日目の2月9日。日本海軍の第一駆逐隊(白雲・朝潮・霞・暁)第2駆逐隊(雷・電・朧)第3駆逐隊(薄雲・東雲・漣)の駆逐艦10隻が深夜の闇の中で遼東半島の旅順へと向かっていた。
遼東半島は日露戦争で一時は日本が占領していたが、戦後の三国干渉で日本から取り上げた。れからロシアが清国より租借し、旅順に軍港を置いて艦隊を配置していた。
日本軍は開戦初日で旅順のロシア艦隊に大打撃を与えようとしていた。その一番槍が駆逐艦に与えられたのである。
2月9日午前0時28分。旅順港の外に停泊するロシア艦隊へまず「白雲」が魚雷を発射。残る9隻も続けて発射した。(数は手元の資料では発射数が20本か16本と食い違う)
命中は3本。戦艦「レトヴィザン」・「ツェザレウィッチ」巡洋艦「パルラーダ」が大破した。
旅順への攻撃は続き、昼近くに東郷平八郎連合艦隊司令長官率いる連合艦隊主力が旅順沖に現れた。
11時45分。開戦命令を告げる信号旗が旗艦「三笠」のマストに上がり「勝敗の決、この一戦にあり。各員努力せよ」と激励した。
午後12時9分。連合艦隊第一戦隊は砲撃開始。ロシア艦隊も応戦、これに旅順の砲台も援護に加わる。
砲撃戦は30分続いたが、撃沈された艦は両軍共に無く、損害も大きなものは無く終わった。
開戦初日である程度の損害を旅順のロシア艦隊に与えた日本海軍であったが、これ以後ロシア艦隊は旅順港奥に引き篭もりバルチク艦隊の来航と共に日本海軍を悩ます事になる。
旅順より南の朝鮮半島の仁川。ここでも海戦が起こった。
戦前から日本海軍三等巡洋艦「千代田」は仁川港にあった。国際港である仁川にはアメリカ・イギリス・フランス・イタリアの艦艇も停泊していて、その中でロシアの二等巡洋艦「ワリヤーグ」と砲艦「コーレツ」を睨んでいた。
2対1であり、性能も「ワリヤーグ」より劣る「千代田」はロシア艦の動向に神経を尖らせ夜間は砲術科と水雷科を戦闘配置に就けて不測の事態に備えていた。
2月8日。瓜生外吉率いる装甲巡洋艦「浅間」に第四戦隊(巡洋艦「浪速」・「高千穂」・「新高」・「明石」)が陸軍部隊を乗せた輸送船と共に仁川沖に到着。「千代田」はこれに合流して劣勢から圧倒的優位な状況となった。
同日夕刻から陸軍部隊をロシアや諸外国の艦艇が見る中で仁川に揚陸させた。これは日本の開戦する意志は確実であると広く伝える事になった。
9日未明に揚陸を終了。午前7時。旅順での第一撃が終わって数時間後、瓜生は「ワリヤーグ」のルードネス艦長へ挑戦状を送る。
「本日正午までに港外に退去せよ。さもなくば、午後4時を期して港内で攻撃を開始する」
瓜生の「浅間」に第四戦隊は仁川沖に待ち構えた。圧倒的不利で留まるも進むもどちらにしても勝機も活路も無かったが「ワリヤーグ」の艦長は瓜生の挑戦を受けて、仁川港を出港する。
午後12時20分。瓜生戦隊は出港した「ワリヤーグ」と「コーレツ」へ砲撃開始。
1隻づつの巡洋艦と砲艦のロシア軍。1隻の装甲巡洋艦と5隻の巡洋艦の日本軍。勝負は最初からついていた。命中弾11発を受けた「ワリヤーグ」は仁川港へ逃げ、午後1時に自沈。「コーレツ」も火薬庫を爆破して自沈した。
敗軍の将となったルードネスと「ワリヤーグ」乗員達は帰国すると英雄として迎えられた。劣勢でも立ち向かった勇者として。
この9日の戦いで日露戦争は実質始まり。翌10日には日本政府から対ロ宣戦布告がなされる。
開戦初日の日本海軍の行動は旅順・仁川のロシア海軍戦力を撃滅して残るウラジオストクの艦隊・来航するバルチク艦隊に備えるものであったが、旅順艦隊の撃滅が思うように完遂出来なかった事が3度の閉塞作戦に黄海海戦。ついには激戦となる旅順攻防戦へと繋がるものとなり旅順艦隊が日本軍の戦略的な足枷となった。