架空戦記小説と軍事の記事を中心にしたブログです
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1941年(昭和16年)12月8日。真珠湾攻撃と並ぶ太平洋戦争の開始と共に行われた作戦に陸軍のマレー半島上陸作戦が行われた。
東南アジアの資源地帯攻略の一環としてマレー半島に上陸した日本軍は12月と翌年1月末までに1100kmもの作戦距離を制してマレー半島を占領した。次に日本軍はマレー半島南端の先にあるシンガポール攻略を準備にかかる。シンガポールは要塞と、大規模な軍港もあるイギリスの「東洋の牙城」と言われる重要拠点だ。
日本軍はマレー半島を攻略した山下奉文中将指揮の第二五軍に引き続きシンガポール攻撃を行わせた。
その兵力は近衛師団(東京)・第五師団(広島)・第一八師団(久留米)を中心に5万の兵力。対してシンガポールのイギリス軍アーサー・パーシバル中将には書類上では8万5000と言う兵力があった。(実際は6万か7万人ぐらい?当時の第二五軍は3万と謝った推測をしてた)
シンガポール攻略を前にして第二五軍は部隊の移動や弾薬・資材の集積を急ピッチで進めた。部隊移動は先行していた(ジョホールバール一番乗りで両師団が競争していた)近衛師団と第五師団から自動車500両を出して第一八師団主力を移動させた。弾薬・物資もクアラルンプールからゲスマまで鉄道で1日1000トン運び。そこから自動車で第二五軍が集結するジョホールや、弾薬集積所に運ばれた。だが、航空隊の物資輸送を行う余裕が無く、第二五軍と第三飛行集団との関係が悪化する問題が発生してしまった。第三飛行集団はインドネシアのパレンバンへの空挺作戦を控えていた事もあり、その憤りは高まった。問題は1月26日に海路で航空隊用の物資が運ばれた事で解決した。
2月8日午前10時。第二五軍の軍砲兵(野戦重砲第三連隊長長屋朝生大佐指揮の野戦重砲兵第三と第一八連隊基幹)が攻撃準備の砲撃を開始、正午には師団砲兵も加わり英軍もこれに一時は沈黙したが砲撃で反撃し、日本軍の砲兵観測所が損害を受けた。
日中の砲撃戦の後、深夜(午後11時から翌9日未明)には第二五軍の3個師団が舟艇でシンガポールとマレー半島を隔てるジョホール水道を渡河した。幅が1kmから600ないし300メートルの水道を各部隊は舟艇に乗ってシンガポール島目指して暗夜を進む。だが、英軍の射撃に舟艇の故障・水道が干潮であった為に舟艇が浅瀬に乗り上げるなど混乱が生じて各部隊の一斉上陸と言う作戦計画は崩れてバラバラでの上陸となった。
だが、英軍は退却して日本軍はシンガポールへの足がかりを得る事が出来た。
シンガポール島の北に上陸した第二五軍は2月11日の紀元節(「日本書記」に書かれた神武天皇即位の日を祝日にした日)にシンガポールを攻略しようと考えていたが、英軍の反撃はまだ続き望みは薄かった。
その2月11日。シンガポール島中部に進出した第五師団と第一八師団がブキテマを攻撃した。前日の深夜からブキテマ周辺に進出して体勢を固めていた両師団であったが、英軍は猛烈な砲撃に掻き集めた戦力でブキテマの南から反撃をも行う激しい抵抗で、白兵戦も何度も繰り返された。
だが、13日未明に英軍はブキテマ周辺の高地である200高地から撤退。ここに「ブキテマ高地の戦い」を制した日本軍であったが、それからも退く英軍の衰えない抵抗振りに最終目標のシンガポール市街地への突入は遠いものであった。
ここで第二五軍の力が尽きようとしていた。弾薬が底をついたのだ。
シンガポール攻撃から7日目にして訪れた危機に第二五軍司令部は焦燥感に満ちた。ここで攻撃を中断すれば英軍の大規模反撃を招くかも知れない。だから銃剣突撃に頼ってでも攻撃続行を決めた。
第二五軍の面々では、山下軍司令官が第五師団戦闘指揮所まで出向いて督励し、第一八師団長牟田口廉也中将は第1線連隊の隊長の所へお訣れ(おわかれ)を言いに行くなど、第二五軍の上級指揮官達を精神的に追い詰めていた。
15日未明。第五師団はシンガポールの水源地の南側を占領した。午前9時30分からも攻撃を続行する第五師団だったが、午後2時に師団の所属部隊(杉浦部隊)に英軍の軍使が現れた。
その後も師団は125高地攻撃を続行していたが、午後6時に125高地から白旗が上がった。他の師団も軍司令部からの情報で午後8時には英軍が降伏した事が伝わる。
8日目にして、シンガポールでの戦闘は終わった。
英軍が降伏した理由は水源地が日本軍に占領された事であった。またジョホールからシンガポールに水を送る送水管を遮断していた。
午後7時からフォード自動車工場で山下とパーシバルの会見が開かれた。
パーシバルはシンガポールの混乱を防ぐ為に治安維持の1000名の武装兵を残したいと主張。これに山下は「治安維持は日本軍が行う」と言ったが、パーシバルは折れず、「攻撃続行をする」と山下は武装兵の件を拒否した。パーシバルは「攻撃は困る」と言い、山下はここで降伏の意志があるかどうか再確認するために有名となる「イエスか」「ノーか」で迫る。これにパーシバルは「イエス」と答えたが、相変わらず武装兵の事を認めて貰いたいと主張したが、降伏文書の調印に至る。
ここで午後10時に停戦と決まり、シンガポールの戦いは日本軍の勝利に終わる。
(パーシバルの1000名の武装兵は無かったように思える。翌16日には日本軍の第二野戦憲兵隊をシンガポール市街地に入って治安維持に努めた。多分に、パーシバルの意地で武装兵の話を繰り返したのだろう。それでもイギリス人にとっては市内のマレー人や中国人などから襲われると危惧したのかもしれないが)
東南アジアの資源地帯攻略の一環としてマレー半島に上陸した日本軍は12月と翌年1月末までに1100kmもの作戦距離を制してマレー半島を占領した。次に日本軍はマレー半島南端の先にあるシンガポール攻略を準備にかかる。シンガポールは要塞と、大規模な軍港もあるイギリスの「東洋の牙城」と言われる重要拠点だ。
日本軍はマレー半島を攻略した山下奉文中将指揮の第二五軍に引き続きシンガポール攻撃を行わせた。
その兵力は近衛師団(東京)・第五師団(広島)・第一八師団(久留米)を中心に5万の兵力。対してシンガポールのイギリス軍アーサー・パーシバル中将には書類上では8万5000と言う兵力があった。(実際は6万か7万人ぐらい?当時の第二五軍は3万と謝った推測をしてた)
シンガポール攻略を前にして第二五軍は部隊の移動や弾薬・資材の集積を急ピッチで進めた。部隊移動は先行していた(ジョホールバール一番乗りで両師団が競争していた)近衛師団と第五師団から自動車500両を出して第一八師団主力を移動させた。弾薬・物資もクアラルンプールからゲスマまで鉄道で1日1000トン運び。そこから自動車で第二五軍が集結するジョホールや、弾薬集積所に運ばれた。だが、航空隊の物資輸送を行う余裕が無く、第二五軍と第三飛行集団との関係が悪化する問題が発生してしまった。第三飛行集団はインドネシアのパレンバンへの空挺作戦を控えていた事もあり、その憤りは高まった。問題は1月26日に海路で航空隊用の物資が運ばれた事で解決した。
2月8日午前10時。第二五軍の軍砲兵(野戦重砲第三連隊長長屋朝生大佐指揮の野戦重砲兵第三と第一八連隊基幹)が攻撃準備の砲撃を開始、正午には師団砲兵も加わり英軍もこれに一時は沈黙したが砲撃で反撃し、日本軍の砲兵観測所が損害を受けた。
日中の砲撃戦の後、深夜(午後11時から翌9日未明)には第二五軍の3個師団が舟艇でシンガポールとマレー半島を隔てるジョホール水道を渡河した。幅が1kmから600ないし300メートルの水道を各部隊は舟艇に乗ってシンガポール島目指して暗夜を進む。だが、英軍の射撃に舟艇の故障・水道が干潮であった為に舟艇が浅瀬に乗り上げるなど混乱が生じて各部隊の一斉上陸と言う作戦計画は崩れてバラバラでの上陸となった。
だが、英軍は退却して日本軍はシンガポールへの足がかりを得る事が出来た。
シンガポール島の北に上陸した第二五軍は2月11日の紀元節(「日本書記」に書かれた神武天皇即位の日を祝日にした日)にシンガポールを攻略しようと考えていたが、英軍の反撃はまだ続き望みは薄かった。
その2月11日。シンガポール島中部に進出した第五師団と第一八師団がブキテマを攻撃した。前日の深夜からブキテマ周辺に進出して体勢を固めていた両師団であったが、英軍は猛烈な砲撃に掻き集めた戦力でブキテマの南から反撃をも行う激しい抵抗で、白兵戦も何度も繰り返された。
だが、13日未明に英軍はブキテマ周辺の高地である200高地から撤退。ここに「ブキテマ高地の戦い」を制した日本軍であったが、それからも退く英軍の衰えない抵抗振りに最終目標のシンガポール市街地への突入は遠いものであった。
ここで第二五軍の力が尽きようとしていた。弾薬が底をついたのだ。
シンガポール攻撃から7日目にして訪れた危機に第二五軍司令部は焦燥感に満ちた。ここで攻撃を中断すれば英軍の大規模反撃を招くかも知れない。だから銃剣突撃に頼ってでも攻撃続行を決めた。
第二五軍の面々では、山下軍司令官が第五師団戦闘指揮所まで出向いて督励し、第一八師団長牟田口廉也中将は第1線連隊の隊長の所へお訣れ(おわかれ)を言いに行くなど、第二五軍の上級指揮官達を精神的に追い詰めていた。
15日未明。第五師団はシンガポールの水源地の南側を占領した。午前9時30分からも攻撃を続行する第五師団だったが、午後2時に師団の所属部隊(杉浦部隊)に英軍の軍使が現れた。
その後も師団は125高地攻撃を続行していたが、午後6時に125高地から白旗が上がった。他の師団も軍司令部からの情報で午後8時には英軍が降伏した事が伝わる。
8日目にして、シンガポールでの戦闘は終わった。
英軍が降伏した理由は水源地が日本軍に占領された事であった。またジョホールからシンガポールに水を送る送水管を遮断していた。
午後7時からフォード自動車工場で山下とパーシバルの会見が開かれた。
パーシバルはシンガポールの混乱を防ぐ為に治安維持の1000名の武装兵を残したいと主張。これに山下は「治安維持は日本軍が行う」と言ったが、パーシバルは折れず、「攻撃続行をする」と山下は武装兵の件を拒否した。パーシバルは「攻撃は困る」と言い、山下はここで降伏の意志があるかどうか再確認するために有名となる「イエスか」「ノーか」で迫る。これにパーシバルは「イエス」と答えたが、相変わらず武装兵の事を認めて貰いたいと主張したが、降伏文書の調印に至る。
ここで午後10時に停戦と決まり、シンガポールの戦いは日本軍の勝利に終わる。
(パーシバルの1000名の武装兵は無かったように思える。翌16日には日本軍の第二野戦憲兵隊をシンガポール市街地に入って治安維持に努めた。多分に、パーシバルの意地で武装兵の話を繰り返したのだろう。それでもイギリス人にとっては市内のマレー人や中国人などから襲われると危惧したのかもしれないが)
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