架空戦記小説と軍事の記事を中心にしたブログです
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第2次世界大戦中の1941年3月。2隻の巡洋戦艦がフランスのブレストに入港した。
その2隻は「シャルンホルスト」と「グナイゼナウ」だ。
1月21日にドイツのキール軍港から出港した2隻は「ベルリン作戦」と言うイギリスへの通商破壊作戦の為に大西洋に出た。
60日あまりの長い航海で10万トンの船舶を撃沈した2隻はイギリス海軍の追跡を逃れて無事にドイツ占領下のフランスはブレストに辿り着くと言う成功を修めたが、英軍はそれまでの借りを返す、いやそれ以上の攻撃を空から行った。
ブレスト入港から一週間後から英軍が爆撃を始めた。爆撃で「グナイゼナウ」が入渠しているドックの中に不発弾が落ち、ドックから出された「グナイゼナウ」。そこへ雷撃を受けて魚雷1本が命中するという悲惨な目に遭った。「シャルンホルスト」も爆弾が命中して発電機室などを損傷した。
こうして2隻はブレストで英空軍の脅威を受けながら修理を行いつつ次の出撃を待つことになった。
9月。ヒトラーはドイツの戦艦を全てノルウェーに配備する事を決めた。ノルウェーに英軍が上陸するのを大きな脅威であるから防衛戦力として戦艦を置いておこうと考えたのだ。
ヒトラーは、5月の「ビスマルク」撃沈で戦艦への信頼を無くしていて、ノルウェー防衛の「砲台」としか見ていなかった。こうした考えによる「ノルウェーへの戦艦配備」にドイツ海軍総司令官エーリッヒ・レーダーは反対したが、ヒトラーはレーダーの意見をことごとく退けて「ノルウェー以外にいる艦はみな配置を誤っている」とさえ言った。これにより「シャルンホルスト」と「グナイゼナウ」をドイツに呼び戻す事となった。
2隻の巡洋戦艦を移動させると決めたが、それは困難があった。
ブレスト上空でも英空軍が跋扈している。更に外洋へ出れば英海軍の勢力圏。「ベルリン作戦」の奇跡は起きないとドイツ海軍は考えていたが、ヒトラーは最も危険な英仏を挟むドーバー海峡を通るべきだと主張した。あえて危険な所を通り英軍の不意を突くのだと。
もちろんこれにレーダーは反対したが、ヒトラーは実行できないなら戦艦をみな退役させて砲台と乗員をノルウェーに回せと脅し海軍の重い腰を上げさせた。
こうしてドーバー海峡を突破する「ケルベロス作戦」が1942年2月11日夜に実行された。2隻のと重巡洋艦「プリン津・オイゲン」は出撃する。まさに博打とも言えるこの作戦。だが、英軍がドイツ艦隊を発見したのは12日午前10時30分。スピットファイヤがドーバー海峡の手前で発見した。
これに艦隊の上空援護を指揮するドイツ空軍戦闘機隊総監アドルフ・ガーランドは「イギリス人はすぐに動き出さんさ。警報が出されるまで1時間はかかるだろうよ」と推測した。
ガーランドの言葉通りになった。英軍が独艦隊のドーバー海峡突破が本当であると確信し英軍が動き出したのは11時35分であった。
12時20分。ドーバー海峡を通過する独艦隊は英軍の沿岸砲から攻撃を受けた。命中はしなかったが、初めての英軍の阻止行為である。続いて魚雷艇も仕掛けて来たが艦隊は攻撃をかわして進む。
攻撃には「ビスマルク」を雷撃した第825中隊も参加したが、中隊は「ビスマルク」と同じくもはや時代遅れの複葉攻撃機を使って雷撃を敢行する。しかし、ガーランドの集めた戦闘機隊(昼間戦闘機250機・夜間戦闘機30機を集めて援護していた)の妨害と艦隊の対空射撃に回避運動で命中弾は無く5名が生き延びただけであった。これに「シャルンホルスト」のホフマン艦長は「かわいそうに・・・まるで自殺じゃないか」と言った。
その後は午後3時45分に英軍駆逐艦6隻と交戦するがこれも雷撃を回避して砲撃で撃退した。
英軍は更に攻撃隊を飛ばして独艦隊を求めたが接触できず、とうとう英軍は独艦隊を逃してしまう。
この英軍が後手に回ったのは何故か?それは独艦隊のドーバー海峡突破を予期して「フラー」という暗号名で警報を出す事にしていたが、上層部の一部しか「フラー」の事を知らなかった。これが対応の遅れる原因であり、ガーランドの予見を当ててしまう結果となった。これに輪をかけて哨戒機が悪天候で引き返したり、基地に航空魚雷が無くて雷撃隊が別の基地に向かう羽目になったりと、まるでドイツ軍に幸運の女神が微笑み英軍に悪魔が取り憑いたような展開となった。
けれども2隻の巡洋戦艦は無傷では無かった。ベルギー近海とオランダ近海で「シャルンホスト」は2度、オランダ近海で「グナイゼナウ」が英軍の機雷によって被雷した。
13日にドイツのウィルヘルムスハーフェンに入港した独艦隊。2度の被雷と戦死2名・重傷者数名。17機の戦闘機に中破した2隻の水雷艇と言う損害を出したが「ケルベロス作戦」は成功に終わった。
だが、12日後の2月25日から3日間ウィルヘルムスハーフェンは爆撃を受けて「グナイゼナウ」は大破。その後も主砲を28センチから38センチに換える改装工事を行っていたが、結局は放棄させられた。
「シャルンホルスト」は1943年12月26日の北岬沖海戦で英艦隊と交戦して撃沈された。
「ケルベロス作戦」自体は成功したが、それは最後のドイツ海軍水上艦隊の栄光となった。(その後はドイツの石油備蓄に余裕が無くなって駆逐艦ぐらいしか動かせなくなる)それは英首相チャーチルの演説がまさに物語っていた。
「敵が駆逐され、わが護送船団の航路に対する脅威がなくなった結果、状勢は現にわがほうに有利となった・・・大西洋に於ける海軍の形勢は、悪化するどころか明らかに楽になったと言って間違いはない」
「ケルベロス作戦」以降。大西洋ではUボートと魚雷艇ぐらいしかドイツ海軍の戦力は無くなり実質上英海軍は大西洋の制海権を獲得する事となったのだ。
その2隻は「シャルンホルスト」と「グナイゼナウ」だ。
1月21日にドイツのキール軍港から出港した2隻は「ベルリン作戦」と言うイギリスへの通商破壊作戦の為に大西洋に出た。
60日あまりの長い航海で10万トンの船舶を撃沈した2隻はイギリス海軍の追跡を逃れて無事にドイツ占領下のフランスはブレストに辿り着くと言う成功を修めたが、英軍はそれまでの借りを返す、いやそれ以上の攻撃を空から行った。
ブレスト入港から一週間後から英軍が爆撃を始めた。爆撃で「グナイゼナウ」が入渠しているドックの中に不発弾が落ち、ドックから出された「グナイゼナウ」。そこへ雷撃を受けて魚雷1本が命中するという悲惨な目に遭った。「シャルンホルスト」も爆弾が命中して発電機室などを損傷した。
こうして2隻はブレストで英空軍の脅威を受けながら修理を行いつつ次の出撃を待つことになった。
9月。ヒトラーはドイツの戦艦を全てノルウェーに配備する事を決めた。ノルウェーに英軍が上陸するのを大きな脅威であるから防衛戦力として戦艦を置いておこうと考えたのだ。
ヒトラーは、5月の「ビスマルク」撃沈で戦艦への信頼を無くしていて、ノルウェー防衛の「砲台」としか見ていなかった。こうした考えによる「ノルウェーへの戦艦配備」にドイツ海軍総司令官エーリッヒ・レーダーは反対したが、ヒトラーはレーダーの意見をことごとく退けて「ノルウェー以外にいる艦はみな配置を誤っている」とさえ言った。これにより「シャルンホルスト」と「グナイゼナウ」をドイツに呼び戻す事となった。
2隻の巡洋戦艦を移動させると決めたが、それは困難があった。
ブレスト上空でも英空軍が跋扈している。更に外洋へ出れば英海軍の勢力圏。「ベルリン作戦」の奇跡は起きないとドイツ海軍は考えていたが、ヒトラーは最も危険な英仏を挟むドーバー海峡を通るべきだと主張した。あえて危険な所を通り英軍の不意を突くのだと。
もちろんこれにレーダーは反対したが、ヒトラーは実行できないなら戦艦をみな退役させて砲台と乗員をノルウェーに回せと脅し海軍の重い腰を上げさせた。
こうしてドーバー海峡を突破する「ケルベロス作戦」が1942年2月11日夜に実行された。2隻のと重巡洋艦「プリン津・オイゲン」は出撃する。まさに博打とも言えるこの作戦。だが、英軍がドイツ艦隊を発見したのは12日午前10時30分。スピットファイヤがドーバー海峡の手前で発見した。
これに艦隊の上空援護を指揮するドイツ空軍戦闘機隊総監アドルフ・ガーランドは「イギリス人はすぐに動き出さんさ。警報が出されるまで1時間はかかるだろうよ」と推測した。
ガーランドの言葉通りになった。英軍が独艦隊のドーバー海峡突破が本当であると確信し英軍が動き出したのは11時35分であった。
12時20分。ドーバー海峡を通過する独艦隊は英軍の沿岸砲から攻撃を受けた。命中はしなかったが、初めての英軍の阻止行為である。続いて魚雷艇も仕掛けて来たが艦隊は攻撃をかわして進む。
攻撃には「ビスマルク」を雷撃した第825中隊も参加したが、中隊は「ビスマルク」と同じくもはや時代遅れの複葉攻撃機を使って雷撃を敢行する。しかし、ガーランドの集めた戦闘機隊(昼間戦闘機250機・夜間戦闘機30機を集めて援護していた)の妨害と艦隊の対空射撃に回避運動で命中弾は無く5名が生き延びただけであった。これに「シャルンホルスト」のホフマン艦長は「かわいそうに・・・まるで自殺じゃないか」と言った。
その後は午後3時45分に英軍駆逐艦6隻と交戦するがこれも雷撃を回避して砲撃で撃退した。
英軍は更に攻撃隊を飛ばして独艦隊を求めたが接触できず、とうとう英軍は独艦隊を逃してしまう。
この英軍が後手に回ったのは何故か?それは独艦隊のドーバー海峡突破を予期して「フラー」という暗号名で警報を出す事にしていたが、上層部の一部しか「フラー」の事を知らなかった。これが対応の遅れる原因であり、ガーランドの予見を当ててしまう結果となった。これに輪をかけて哨戒機が悪天候で引き返したり、基地に航空魚雷が無くて雷撃隊が別の基地に向かう羽目になったりと、まるでドイツ軍に幸運の女神が微笑み英軍に悪魔が取り憑いたような展開となった。
けれども2隻の巡洋戦艦は無傷では無かった。ベルギー近海とオランダ近海で「シャルンホスト」は2度、オランダ近海で「グナイゼナウ」が英軍の機雷によって被雷した。
13日にドイツのウィルヘルムスハーフェンに入港した独艦隊。2度の被雷と戦死2名・重傷者数名。17機の戦闘機に中破した2隻の水雷艇と言う損害を出したが「ケルベロス作戦」は成功に終わった。
だが、12日後の2月25日から3日間ウィルヘルムスハーフェンは爆撃を受けて「グナイゼナウ」は大破。その後も主砲を28センチから38センチに換える改装工事を行っていたが、結局は放棄させられた。
「シャルンホルスト」は1943年12月26日の北岬沖海戦で英艦隊と交戦して撃沈された。
「ケルベロス作戦」自体は成功したが、それは最後のドイツ海軍水上艦隊の栄光となった。(その後はドイツの石油備蓄に余裕が無くなって駆逐艦ぐらいしか動かせなくなる)それは英首相チャーチルの演説がまさに物語っていた。
「敵が駆逐され、わが護送船団の航路に対する脅威がなくなった結果、状勢は現にわがほうに有利となった・・・大西洋に於ける海軍の形勢は、悪化するどころか明らかに楽になったと言って間違いはない」
「ケルベロス作戦」以降。大西洋ではUボートと魚雷艇ぐらいしかドイツ海軍の戦力は無くなり実質上英海軍は大西洋の制海権を獲得する事となったのだ。
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