架空戦記小説と軍事の記事を中心にしたブログです
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1944年1月28日。独ソ戦においてソ連軍は5万6000名のドイツ軍を包囲した。
前年のスターリングラードとクルスクの勝利で圧倒的優位に立ったソ連軍は次々と攻勢をかけてはドイツ軍を西へと追いやった。ドイツ軍は最悪の事態である第2のスターリングラード、ソ連軍によって包囲されて破滅を迎えるのを避けるべく後退を続けてていたが、ドイツ第11軍団と第42軍団はウクライナのチェルカシイでその最悪の事態を迎えてしまった。
ヒトラーはすぐに対応を決めた。2個装甲部隊でチェルカシイの友軍と連絡を回復すべしと。
最初の計画では9個装甲師団で2個装甲軍団を編成してチェルカシイ救援に向かう予定だったが、ニコポリでの戦況悪化から第47装甲軍団はニコポリに向かってしまった。残るブライト将軍の第3装甲軍団だけがチェルカシイの希望となった。
第3装甲軍団は第1装甲師団・第16装甲師団・第17装甲師団・SS第1装甲師団「アドルフ・ヒトラー親衛隊」にベーケ重戦車連隊からなる部隊である。
この中のベーケ重戦車連隊という特異な部隊がある。これは指揮官フランツ・ベーケ中佐の名前から命名されたものであり、「重戦車連隊」と言う名も第503重戦車大隊のティーガーⅠ重戦車35両・第23戦車連隊第2大隊のパンター中戦車47両・第88砲兵師団第1大隊(フンメル自走砲装備)という重装甲かつ強力な火力の戦車が揃ったものである。
この強力な部隊に与えられた任務は作戦の先鋒を勤め、ソ連軍の戦線を突破する事であった。
ドイツ軍の誇る鋼鉄の虎と豹がその持てる力で第3装甲軍団の道を切り開き、チェルカシイのドイツ軍といち早く握手が出来るであろうと思われていた。
果たせるかな、2月4日から救援作戦は開始された。
だが、この時点で無理があった。作戦は第3装甲軍団とチェルカシイの部隊でソ連軍を包囲しようと言う夢想や妄想とも言える不可能な作戦である。この為にベーケの連隊はチェルカシイへは遠回りの北へ向かっていた。
1km進む事に戦車と対戦車砲と戦いながらも突き進む。だが、降雨での雪解けが戦車の大敵泥濘を生んだ。泥濘は重い戦車の足を引っ張り、こと重量級の戦車ばかりのベーケの連隊は進撃が鈍くなった。
それでもチェルカシイまであと30kmまで近づいた。だが、そこから動けなかった。
頓挫するかに見えた作戦もヒトラーがチェルカシイへの最短ルートである東に針路を変える事を許してから再始動する。
2月11日。東への進撃が開始される。今度は第1装甲師団が先鋒を勤める。
だが、その行く手を239高地が阻んだ。ここを占領すればチェルカシイまで10km。目前だ。
けれどもソ連軍は第5親衛戦車軍団を差し向けて高地を固く守る。
ベーケ重戦車連隊や第16装甲師団の戦車。武装SSの装甲擲弾兵大隊や急降下爆撃のエースであるルーデルの支援爆撃をもってしても239高地は落ちない。
ここに至り第3装甲軍団は兵力を消耗していた。600名の大隊が60名になり戦車の数も減っていた。加えて第16装甲師団・第17装甲師団・SS第1装甲師団がソ連軍と防衛戦を展開していた。もはや余力は無い。作戦はまたしても頓挫しようとしていた。
南方軍集団司令官エーリッヒ・フォン・マインシュタインは2月15日にチェルカシイの部隊(シュテンマーマン集団)に自力で第3装甲軍団の所へ脱出させる事を決意。2月16日には突破に自信が持てないシュテンマーマン集団に「合い言葉は<自由>、目標はシェリンカ、23時」と命じてシュテンマーマン集団を動かさせた。
マインシュタインはスターリングラード救援でパウルスの第6軍が自力での脱出を放棄した悲劇を身をもって知っているからだ。
そして、23時。シュテンマーマン集団は突破を試みた。ソ連軍を攻撃して血路を開き友軍の所へと向かい合い言葉の「自由」を叫んで握手をした。けれどもソ連軍も黙って見逃さない。だがドイツ兵も零下5度の川をソ連軍に撃たれながらも渡った。
こうした懸命のシュテンマーマン集団を援護すべく第3装甲軍団は援護する。ベーケの連隊が最後の燃料で239高地を攻撃して牽制をした。第1装甲師団の橋に、第37装甲工兵大隊がSS第1装甲師団に守られながら作った応急の橋が突破の道を築いていた。
こうして、2月19日に最後の兵を収容して作戦は終了した。
救えた兵は5万6000名中3万5000名。(またチェルカシイから2188名の負傷兵が空輸された)
こうして第2のスターリングラードは回避された。だが、この救出作戦でのドイツ南方軍集団の損害は大きかった。救った3万5000名もすぐ戦える訳でもない。消耗した装甲師団にも頼れない。
第3装甲軍団はソ連軍の新たな攻勢に火消し役を務めたが、南方軍集団全体がソ連軍との戦いを支えられず、ルーマニアへの入り口を開く事になるのである。
前年のスターリングラードとクルスクの勝利で圧倒的優位に立ったソ連軍は次々と攻勢をかけてはドイツ軍を西へと追いやった。ドイツ軍は最悪の事態である第2のスターリングラード、ソ連軍によって包囲されて破滅を迎えるのを避けるべく後退を続けてていたが、ドイツ第11軍団と第42軍団はウクライナのチェルカシイでその最悪の事態を迎えてしまった。
ヒトラーはすぐに対応を決めた。2個装甲部隊でチェルカシイの友軍と連絡を回復すべしと。
最初の計画では9個装甲師団で2個装甲軍団を編成してチェルカシイ救援に向かう予定だったが、ニコポリでの戦況悪化から第47装甲軍団はニコポリに向かってしまった。残るブライト将軍の第3装甲軍団だけがチェルカシイの希望となった。
第3装甲軍団は第1装甲師団・第16装甲師団・第17装甲師団・SS第1装甲師団「アドルフ・ヒトラー親衛隊」にベーケ重戦車連隊からなる部隊である。
この中のベーケ重戦車連隊という特異な部隊がある。これは指揮官フランツ・ベーケ中佐の名前から命名されたものであり、「重戦車連隊」と言う名も第503重戦車大隊のティーガーⅠ重戦車35両・第23戦車連隊第2大隊のパンター中戦車47両・第88砲兵師団第1大隊(フンメル自走砲装備)という重装甲かつ強力な火力の戦車が揃ったものである。
この強力な部隊に与えられた任務は作戦の先鋒を勤め、ソ連軍の戦線を突破する事であった。
ドイツ軍の誇る鋼鉄の虎と豹がその持てる力で第3装甲軍団の道を切り開き、チェルカシイのドイツ軍といち早く握手が出来るであろうと思われていた。
果たせるかな、2月4日から救援作戦は開始された。
だが、この時点で無理があった。作戦は第3装甲軍団とチェルカシイの部隊でソ連軍を包囲しようと言う夢想や妄想とも言える不可能な作戦である。この為にベーケの連隊はチェルカシイへは遠回りの北へ向かっていた。
1km進む事に戦車と対戦車砲と戦いながらも突き進む。だが、降雨での雪解けが戦車の大敵泥濘を生んだ。泥濘は重い戦車の足を引っ張り、こと重量級の戦車ばかりのベーケの連隊は進撃が鈍くなった。
それでもチェルカシイまであと30kmまで近づいた。だが、そこから動けなかった。
頓挫するかに見えた作戦もヒトラーがチェルカシイへの最短ルートである東に針路を変える事を許してから再始動する。
2月11日。東への進撃が開始される。今度は第1装甲師団が先鋒を勤める。
だが、その行く手を239高地が阻んだ。ここを占領すればチェルカシイまで10km。目前だ。
けれどもソ連軍は第5親衛戦車軍団を差し向けて高地を固く守る。
ベーケ重戦車連隊や第16装甲師団の戦車。武装SSの装甲擲弾兵大隊や急降下爆撃のエースであるルーデルの支援爆撃をもってしても239高地は落ちない。
ここに至り第3装甲軍団は兵力を消耗していた。600名の大隊が60名になり戦車の数も減っていた。加えて第16装甲師団・第17装甲師団・SS第1装甲師団がソ連軍と防衛戦を展開していた。もはや余力は無い。作戦はまたしても頓挫しようとしていた。
南方軍集団司令官エーリッヒ・フォン・マインシュタインは2月15日にチェルカシイの部隊(シュテンマーマン集団)に自力で第3装甲軍団の所へ脱出させる事を決意。2月16日には突破に自信が持てないシュテンマーマン集団に「合い言葉は<自由>、目標はシェリンカ、23時」と命じてシュテンマーマン集団を動かさせた。
マインシュタインはスターリングラード救援でパウルスの第6軍が自力での脱出を放棄した悲劇を身をもって知っているからだ。
そして、23時。シュテンマーマン集団は突破を試みた。ソ連軍を攻撃して血路を開き友軍の所へと向かい合い言葉の「自由」を叫んで握手をした。けれどもソ連軍も黙って見逃さない。だがドイツ兵も零下5度の川をソ連軍に撃たれながらも渡った。
こうした懸命のシュテンマーマン集団を援護すべく第3装甲軍団は援護する。ベーケの連隊が最後の燃料で239高地を攻撃して牽制をした。第1装甲師団の橋に、第37装甲工兵大隊がSS第1装甲師団に守られながら作った応急の橋が突破の道を築いていた。
こうして、2月19日に最後の兵を収容して作戦は終了した。
救えた兵は5万6000名中3万5000名。(またチェルカシイから2188名の負傷兵が空輸された)
こうして第2のスターリングラードは回避された。だが、この救出作戦でのドイツ南方軍集団の損害は大きかった。救った3万5000名もすぐ戦える訳でもない。消耗した装甲師団にも頼れない。
第3装甲軍団はソ連軍の新たな攻勢に火消し役を務めたが、南方軍集団全体がソ連軍との戦いを支えられず、ルーマニアへの入り口を開く事になるのである。
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