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架空戦記小説と軍事の記事を中心にしたブログです
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今月2月9日は俺の誕生日だ。
なので2月にあった歴史の出来事(主に戦史)を取り上げてみたい。
その第1弾として太平洋戦争の戦局を大きく変えたガダルカナル島攻防戦の最期である日本軍撤退について。

1941年(昭和16年)12月から始まった太平洋戦争は日本軍優勢に進んで東南アジア・西太平洋を席巻した。
日本海軍はアメリカとオーストラリアの連絡線を遮断するとしてフィジー諸島・サモア諸島を攻略する(FS作戦)の準備的なものとしてソロモン諸島のガダルカナル島を占領し、飛行場を建設した。
この飛行場の滑走路が完成した時に戦局はミッドウェー海戦で日本軍が敗北。米軍は次の反撃として1942年8月。ガダルカナル島を攻略するウオッチタワー作戦を実行。海兵師団が上陸して多くが飛行場建設の部隊であるガダルカナルの日本軍は飛行場を捨てて内陸へ後退した。
米軍は飛行場を中心に陣地を構築。日本軍は一木支隊に川口支隊と部隊を送り込むが米軍に撃退される。
10月。この状況に日本軍は総力を挙げての反撃を決意。海軍は戦艦「金剛」・「榛名」で飛行場を砲撃。陸軍は第2師団を送り込む。米軍は「エンタープライズ」・「ホーネット」を基幹とした空母機動部隊をソロモン諸島へ進出させた。そして日米の機動部隊が激突する南太平洋海戦が展開される。日本軍は米軍の空母を1隻撃沈、もう1隻を撃破して勝利したが日本機動部隊の航空隊が壊滅的な損害を受けていた。陸軍も1個師団を投入した総攻撃が失敗。日本軍のガダルカナル奪回作戦はここに頓挫した。
それからも第38師団や重砲部隊がガダルカナルに派遣されるものの、ガダルカナル島の制空権も制海権も米軍が握っていた為に補給が続かず日本軍将兵は飢餓に見舞われた。
日本海軍は決死の駆逐艦や潜水艦でのネズミ輸送を行うものの、運べる物資が少なく焼け石に水であった。
2万名以上の将兵が居たが多くが飢えて体力を失い、病と栄養失調で戦う事が不可能となっていた。
この行き詰まりにガダルカナルでの勝利が絶望的になっていたが誰もはっきりと「失敗です」と言ってガダルカナルでの作戦を中止させる言葉が出ずにいた。
連合艦隊司令長官山本五十六は「よし、俺が悪者になろう」と言ってガダルカナル島からの撤退を意見具申しようとする発言をした。
だが、一番大きな役割をしたのは昭和天皇である。戦局を憂いた天皇の意向で翌年1月4日の御前会議を12月31日に行なった。ここで海軍軍令部総長永野修身は天皇に奏上した。
「ソロモン方面ニ於キマシテハガ島奪回作戦ヲ中止シ概(おおむ)ネ一月下旬乃至(ないし)二月上句ニ亘(わた)ル期間ニ於キマシテ陸海軍協同アラユル手段ヲ尽シマシテ在ガ島部隊ヲ撤収致シマス」
ガダルカナル島撤退を天皇に意見具申したのだ。天皇は「この方針に最善を尽くすように」と答えて決裁した。
ここにガダルカナル島撤退が決まる。
1943年(昭和18年)1月。ガダルカナル島撤退の作戦ケ号作戦が準備される。連合艦隊司令部はラバウルの南東方面艦隊・第八艦隊と作戦を協議していた。陸軍は撤退作戦を伝える役目として第八方面軍参謀の井本中佐と佐藤少佐が撤退援護の1個大隊に通信部隊を引き連れて1月14日にガダルカナル入りした。
ガダルカナルの日本軍は飢餓により半数以上の兵を失っていた。他の友軍とも隔絶したガダルカナルの日本軍(第十七軍)の司令部や師団長は玉砕をする覚悟だった。井本・佐藤にも撤退は不可能であるから最後の斬り込み突撃を敢行して皇軍の栄誉を保つべきだと第十七軍参謀は頑なに撤退反対を説く。
けれども第十七軍司令官百武晴義中将は大本営の決定に従うとして「大命を万難を排して遂行するに決裁す」と撤退を決めた。

撤退はガダルカナル島西部に部隊を移動させて行う事とした。部隊の位置から第38師団から行われた。
2月1日。第1次撤退
駆逐艦20隻で第38師団将兵を中心に5400人以上が撤収。
2月4日。第2次撤退
駆逐艦20隻で第2師団を中心に5000人以上が撤収。この時第十七軍司令部も撤退。
2月7日。第3次撤退
駆逐艦18隻で残存部隊2600人以上が撤収。
この3回に分けての撤収で日本軍はガダルカナル島を後にした。海軍は駆逐艦「巻雲」が撃沈。駆逐艦「舞風」が空襲で損害を受けたが1万人以上を飢餓地獄と化したガ島より救い出した。
だが、撤退命令が届かなかった歩兵第四連隊内藤大隊は全滅してしまう。また、個人単位での残留者も居て最後の1人が昭和27年にようやく降伏する。

撤退後。百武はガダルカナル島での敗北の責任を取って自決するつもりでいたが、第八方面軍司令官今村均大将があなたが「兵を飢えさせたのではない。2万の戦友の霊を見守るためにも生きてください」と説得して自決を思いとどまらせた。
ガダルカナル島を戦った部隊のその後。第二師団はビルマ戦線へと向かい、ここではガダルカナル島で経験した事が役に立ち激戦を戦い抜いた。
第三八師団はラバウルで他の部隊と共に自給体制を作り上げて終戦を迎える。

ガダルカナル島では3万人以上の日本軍が上陸した。戦死は5000人を出したが、最も多かったのは飢餓による戦病死15000人であった。
このガダルカナル島の戦い以降。補給が途絶した戦場で多くの日本軍将兵が戦うよりも飢えに苦しむ事になるのである・・・。
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