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架空戦記小説と軍事の記事を中心にしたブログです
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2007年8月16日午後7時50分。広島駅新幹線口から高速バスで東京に向けて出発した。これが東京旅行の始まりだ。
本当は前回と同じく三原駅発新宿着の高速バスにしようとしたが、電話予約で「座席が無いですね。ですが町田に着くのならありますよ」と言われ、それで予約した。
町田。今年起きた暴力団構成員がアパートに立て籠もった事件の現場となった町でしかしらない土地だ。

バスの揺れと不意打ちの車内点灯で良くない寝起き状態で町田に到着。
ここで少しスケジュールが狂う。荷物を港区に住む友人Y宅で預けようとしたが。「来るなら8時まで」と言われていた。しかし、到着は7時15分。町田から友人Y宅まで1時間以上もの時間が必要だから8時までは無理だ。かといって出勤する友人Yを待たせる訳にいかない。
ここで新たなスケジュールを路線図眺めながら決めた。
町田の駅では共産党の演説という(9条を守らないといけないと言っていた)出迎えを受ける。
まずは、小田急線で生田駅に向かい。そこから少し歩いて明治大学内にある旧陸軍登戸研究所を外から眺める。
次いで生田から登戸まで小田急で向かい、そこから南武線で武蔵溝ノ口から田園都市線溝の口駅で乗り替え、双子玉川へ。そこで「フタコイ オルタナティブ」の世界を堪能(?)する。
まずは生田へ。目的の登戸研究所は1937年に登戸実験場をはじめに、登戸出張所を経て1942年には第9研究所と名称を変え、規模は拡大した。この研究所では日中戦争の為にニセ紙幣を製造して国民党政府の経済を崩壊させる謀略の道具に太平洋戦争末期では風船爆弾の開発も行っていた。また、戦後の帝銀事件で使われた毒薬が登戸研究所で作られた物だとも言われており、秘密の多い陸軍の部署であった。
いきなり見に行く事にしたが、明治大学構内にいきなり入る訳にはいかない。ので外から眺める。木や草が茂り構内を伺えるものでは無かったが、これが当時と同じなら防諜の役割にはなったかもしれない。
次いで双子玉川へ。田園都市線の車窓から多摩川を見ると河川敷の風景はまさに「フタコイ」の世界だ。そして双子多摩川駅を下りる。
駅前は。デパートやビルが並んでる。少し町の奥へ行くと「フタコイ」の世界に近い雰囲気の町並みに。けど、美少女双子を見る事は無かった。綺麗なお姉さんならよく見れたが(笑)
双子多摩川から大井線で大井駅まで。そこから東海道線で品川駅へ。そこのロッカーで荷物を置く。
出発前に。某掲示板仲間のプリムラさんから「品川駅から京浜急行に乗ると大原さやかのアナウンスが聞けますよ」と教えて貰う。しかし、間違って京浜東北線で大船駅まで行く。
大原さやかは「うたわれるもの」のウルトリィや「xxxHOLiC」の壱原侑子など年上お姉さんの役が多い声優だ。楽しみにしていただけに悔やまれる。
大船でソバを食ってから横須賀線で横須賀へ。
横須賀駅の直前で海自の基地が眼前に広がる。「たかなみ」級や「しらね」級が出迎える。駅前の風景を見てアニメ「スカイガールズ」で桜野音羽と園宮可憐がひっやくり男を倒す場面を思い出す。
ヴェルニ公園から横須賀の海自艦艇と、初めて見る米軍艦艇を見る。
タイコンデロガ級巡洋艦やアーレイバーグ級駆逐艦が補修作業の様で。SPYレーダーは緑のシートで覆われ、各所には作業用の足場がある。また、ミサイル追跡の艦艇らしきものも1隻あった。
歩いて三笠公園へ。東郷平八郎像と記念艦「三笠」が眼前に広がる。記念艦「三笠」は日露戦争で連合艦隊旗艦となった戦艦で。1925年(大正14年)に記念艦となった。
艦橋の一番上を行く。高所恐怖症の俺もなんとか登る。そこから東郷が見たであろう1905年(明治38年)5月27日の光景に思いを馳せる。煤煙連ねるロシアバルチク艦隊を睨み、4600mまで反撃を堪える。それを天井の無い高台でしていた東郷。相当の心労があったに違いないと思われる。
甲板を歩き回ると副砲の多さに驚く。艦の側面に艦橋と、配置可能な所はどこでも副砲がある。(15センチから47ミリの各砲合わせて40門!)その副砲も天井付きで壁もあるが、後ろは開けている所や、密室の所もある。ここで砲撃の轟音に振動。更に熱を帯びた砲からの熱で操作する将兵は汗だくになりつつ迅速に作業するのだ。それを考えると過酷な環境である。
それと打って変わって艦内後部にある士官の部屋は豪華だ。艦長や長官に幕僚・機関長の部屋はカーテン付きのベッドに木の棚が置かれた簡素に見えるが軍艦にしては豪華である。公務室と呼ばれる作戦会議等を行う部屋はホテルやレストランか?と思える豪華さだ。(そこには副砲が隅にあった)旧帝国海軍はイギリスに習い「三笠」はイギリスで作られた。この頃の海軍はまだイギリス流が色濃いようである。
また、艦内の資料室には「天気晴朗なれども波高し」の無電を受けて紙に書き留められた通信用の用紙に、東郷の軍服が展示してある中で俺を含めた来客の方々が注目を浴びたのは、日本海海戦の動くジオラマだ。センサーで人が居るのを確認すると装置が動き、説明のアナウンスが始まり日露の艦隊の模型が数珠繋ぎで進む。結構仕掛けが細かく砲戦の段になると模型の豆電球が光って発砲を演じ、海面からは水柱を模したモノが飛び出す。見ていてなかなかに面白いものでした。
それに艦内にはその部署で亡くなった将兵の名がプレートで書かれて貼り付けられている。この「三笠」が歴史の中にあるなによりの証拠と言える。
「三笠」の次は、猿島だ。「三笠」の横には猿島行きの船着き場ある。
猿島は幕末に3門の砲が置かれるのを始めに、要塞としての生涯を歩む。明治17年からは近代的な要塞の工事が始まり、東京湾防衛の1拠点となった。太平洋戦争末期は砲台を高射砲に変えて対空の要塞となり終戦を迎えた。
そして現在は、観光のビーチとして賑わっていた。猿島に着くと自分が場違いな所に来たのでは?と錯覚するアウトドアな光景だ。それを横目に山へ向かう。波止場から「海軍港」の碑があり、山道の始まりの所には当時のモノであろうコンクリート製の建物がある。山の中を進むと赤い煉瓦の壁が現れる。空を隠す木の茂りもあって涼しげな風景だ。奥に行くと煉瓦のトンネル、更に上を登ると3カ所の砲台跡(コンクリートの基礎だけ)が。海軍の要塞であったから高角砲が据えてあったのかもしれない。
最後に山の頂上にある元観測所の建物を見て下山。波止場へ。この時までに慣れない山登りで身体はヘトヘトになっていた。だが、これから横須賀線・京浜東北線・山手線と乗り替えて行き、友人Yと合流するのであった。
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