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架空戦記小説と軍事の記事を中心にしたブログです
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昭和20年6月22日。天皇が終戦に向けて動き出した。

昭和19年には近衛文麿と岡田啓介は戦力を大幅に減らす決戦を行えば軍も国民も納得するだろうと考えていた。2人は海軍にそれを当てはめて考えていた。
だが、問題は陸軍であった。太平洋戦争では最大で1個師団ごとの戦いしかしなかった為に「何十万の兵力で戦う決戦をしてない」という認識があった。フィリピン・ルソン島では28万名以上の兵力で昭和20年1月の米軍上陸を迎え撃つが、激しい抵抗の末にルソン島の山岳地帯に追い込まれる。
沖縄戦でも2個師団を中心に10万名で迎え撃つが2ヶ月後には組織的な抵抗は不可能となった。
米軍の圧倒的な陸海空の戦力に敗退しても陸軍は徹底抗戦を強硬に訴えた。
だが、そんな陸軍も勢いを失う兆候があった。
「陸軍は此の戦局に自信を失って来て居ると見て居る。夫れは陸軍はソ連の出方を非常に恐れて、(一)中立条約を延長し、(二)和平斡旋を依頼し、(三)大東亜戦争の終結を望んで居る。その意味はこの戦争に自信がなくなっている為と想像するが併し口に出して云わぬ。特に梅津(陸軍参謀総長)は判然して居らぬ」
(「米内光政海相口述覚書」昭和20年5月14日)
5月7日にドイツが降伏した為に米英と戦うのは日本だけとなり、ほぼ孤立無援となった状況に陸軍が自信を失ったようだと米内光政海軍大臣は感想を抱いたようだ。けれども、口からは本土決戦を声高に叫んでいた。
しかしながら陸軍では内部崩壊に近い状況が起きている事は実感していた。7月25日。軍紀・風紀を主題に方面軍参謀副長と兵務担当参謀とで会合が行われた。ここで「軍紀逐次弛緩。離隊逃亡が違反行為の6割」・「離隊の原因は食糧不足」・「特攻隊員の悪質犯罪」・「物欲色欲に起因する犯罪が多発」と報告された。これは日本本土にある部隊の将兵についての報告であり、陸軍が望む本土決戦を行う部隊は軍隊としての機能を失いかけていた。
とはいえ。陸軍が本土決戦を諦めて米英との講話をすべきと口にはしなかった。代わりにソ連を仲介しての終戦ならば望んだ。

その対ソ交渉は成功の見込み無く行われた。箱根で元首相の広田弘毅が駐日ソ連大使ヤコブ・マリクと私的に会うと装い対面するが、マリクは広田がソ連の動向を探りに来た事を見抜き広田は何も得る事無く会談は終わる。
また、ソ連も4月5日に翌年で期限が切れる日ソ不可侵条約の破棄を通告。日本政府は条約の延長と和平工作の依頼をソ連に行おうとした。また特使として近衛文麿をもモスクワに送るとスターリンに申し出ようとした。だが、この交渉をする駐ソ大使佐藤尚武はソ連が日本とアメリカの仲介をするのは有り得ない事だと知っていて逆に東京へ早期終戦をすべきだと意見を伝えた。
対ソ交渉は初めから成功の見込み無しではあったが、前にも書いた通り。米英を交渉に呼び込むブラフとしてソ連への接近を装ったのでは?と思う。
そうなると、陸軍も遠回りに米英との戦争終結を望んでいたと言う事でもあるのかもしれない。

7月16日。アメリカは原爆実験を成功させて原子爆弾の保有国となった。
7月26日。連合国はポツダム宣言を発表。
日本は追い詰められた。アメリカの原爆については知らなくても日本を連合国が占領と書かれたポツダム宣言。東郷茂徳外務大臣は当面は意思表示するべきではないと言う原則を出したが、軍の強硬派の圧力から鈴木貫太郎首相は7月28日に記者団にこうポツダム宣言について意見を述べた。
「私は三国声明(ポツダム宣言の事)はカイロ宣言の焼き直しと思う。何ら重大な価値があるものとは思えない。ただ黙殺するのみである。われわれは断乎戦争完遂に邁進するのみである」
(「朝日新聞」昭和20年7月30日付け)
ここで終戦の問題でよく取り上げられる「黙殺」という言葉が出た。
だが、鈴木首相は戦後の回想「終戦の表情」で「この宣言は重視する要なきものと思う」と7月28日に記者団に述べたと書かれている。つまり、鈴木から「黙殺」の言葉は出なかったのだ。
では、何故に「黙殺する」と言ったと新聞は書いたか?それは7月27日に内閣書記官長(今の官房長官)迫水久常が記者団との懇談会で
「日本政府としては受諾するといった態度がとれない重要視しないというか、ネグレクトする方向でいくことになるだろう」
と語る。この「ネグレクト」の意味で記者団から「黙殺か?」と聞かれると。
「黙殺?ネグレクトは黙殺ともいえるかなあ」
とやり取りがあった。また迫水は「大きく新聞のトップか何かで『ポツダム宣言黙殺!』っていうように扱かわんでくれ」とも言った。
迫水の意向を了承して朝日新聞7月28日付けでは2段見出して6行の記事で「帝国政府としては何ら重大なる価値のあるものに非ずとしてこれを黙殺すると共に、断乎戦争完遂に邁進するのみである」と書いた。
つまり、黙殺とはっきり言ったのは迫水であり、鈴木では無かった。だが政府としては受諾する方向ではないと言う意志表明では同じだった。当時のマスコミも鈴木が迫水と同じ意見であったから「黙殺」と述べたと書かれた。
けれどもこの「黙殺する」は日本の同盟通信社が「ignore(無視する、知らないふりをする)」の意味で海外に報じた。アメリカのAP通信やイギリスのロイター通信は「ignore」を「reject(拒否)」と言い換えて報じた。連合国は日本の黙殺を「ポツダム宣言拒否」と解釈した。
しかし、アメリカは7月25日。ポツダム宣言発表前にトルーマン大統領が原爆投下を命令していた。また、ソ連も日本が和平仲介や日ソ不可侵条約延長を頼んでも2月のヤルタ会談で対日参戦を決めていた。
日本への新たな打撃を与える戦略は日本の意向に関わらず動き出していた。

8月6日。広島市に原爆投下
8月9日。長崎市に原爆投下、ソ連対日参戦
9日。最高戦争指導会議では、この新たに悪化した局面にポツダム宣言受諾で閣僚の意志は固まろうとしたが戦後の天皇の扱いで暗礁に乗り上げた。ここにジョゼフ・グルーがポツダム宣言に盛り込もうとした「天皇制の保証」を削除した事が響いていた。
また、陸軍大臣阿南惟幾は戦犯処罰等に条件を付け
「ソロバンずくでは勝算のメドはないが、大和民族の名誉のため戦いつづけるうちは何らかのチャンスはある」
と徹底抗戦の主張を改めて言い、東郷外務大臣の「国体護持のみを条件に降伏の意見と衝突した。
この時、陸軍では政府の動きを読んでいて、阿南が陸軍省に居るとクーデターを起こしてでも戦争継続をすべきと迫る強硬派将校の圧力を受けていた。彼らを抑える為には「陸軍としては戦争継続を望む」という立場を貫く必要があった。だからポツダム宣言受諾を決断する直前まで阿南は異常とも言える程に閣議で徹底抗戦を訴えたのだ。
9日午後11時50分から開かれた御前会議。ここで結論が出ない事から鈴木首相は天皇に決断を仰いだ。
「私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理だと考える」
と戦争継続の意志は無いと表明した。
「陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領というようなことはまことに堪え難いことで、その心持は私にはよくわかる。しかし自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい」
「この際私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前にも立つ」
と軍への理解を示しつつ、終戦の為ならば出来る事があればするとも言った。
これがポツダム宣言受諾の「御聖断」である。時に昭和20年8月10日未明の事である。
外務大臣原案(国体護持を条件としたポツダム宣言受諾)で降伏と決まり、中立国経由でアメリカに伝えられた。
アメリカはグルーや米海軍は戦後統治を円滑にするためには天皇の存在は必要と考え日本の条件には賛成だった。しかし、バーンズ国務長官は
「誰が天皇になっても天皇制が残ればいいんだろ」
と海軍長官フォレスタルに語った。そのバーンズはポツダム宣言に変更をしない事で遠回しに「天皇制を認める」意志表明を日本に回答した。
この不透明なバーンズの回答に日本では再び混乱が起きる。「天皇を連合国軍の制限下の置く」とする箇所の「subject to」を陸軍は「従属する」と解釈して国体護持はできないと不満を表した。また大西滝治郎海軍軍令部次長が「今後二千万の日本人を殺す覚悟で特攻として用うれば決して負けはせぬ」と外務大臣・陸軍参謀長・海軍軍令部総長が会見中に乗り込んでそう意見する場面があったりと不穏な空気が流れた。
だが、8月14日の御前会議で天皇は
「わたくし自身はいかにんろうとも、国民の生命を助けたいと思う」
と改めて降伏の聖断をした。これによって日本の降伏は決定された。
だが、14日深夜には皇居を守る陸軍近衛師団が決起した。天皇が全軍・全国民に降伏したとラジオで伝えるレコード「玉音盤」を奪い終戦への流れを変えようとした。また、陸軍横浜警備隊は首相官邸や鈴木首相の自宅を襲った。だが、これらの反乱は朝までに治まった。
8月15日正午。前夜の嵐を乗り越えて玉音盤から流れる天皇の声が全国や海外の占領地域に飛ぶ。

水面下の工作を含めると昭和19年から1年以上の月日の末に降伏して終戦の決断ができた。
日本においては軍部をいかに納得させて降伏させるかが鍵となり終戦の決断をする時期を見極められなかった。
アメリカは日本に妥協する和平があるもののハードピースの路線で戦略は進んだ。

タイトルの「終戦に原爆は必要か」の結論を出すならばあえて「必要無い」と言おう。御前会議の決定が原爆投下後にしても、アメリカは日本がどうすれば和平に応じるかを知っていたし、日本も現場だけの活動ではあるが米英との和平交渉の窓口があった。原爆投下以外の和平に繋がる選択肢がある以上は「原爆投下以外の和平の可能性はあった」と今回は締め括りたい。
原爆投下でこそ終戦が出来たと言うには今も尚原爆投下で受けた後遺症で苦しむ人々の上に平和があると考えると心が痛むからだ。

参考文献とサイト
「歴史群像2005年8月号」
「月刊歴史街道2005年9月号」
「日本海軍の終戦工作~アジア太平洋戦争の再検証~」纐纈厚著 中公新書
「太平洋戦争の意外なウラ事情~真珠湾攻撃から戦艦「大和」の特攻まで~」太平洋戦争研究会 PHP文庫
日瑞関係のページ  http://www.saturn.dti.ne.jp/~ohori/sub15.htm
たむ・たむ(多夢・太夢)のページhttp://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/IRIGUTI.htm
Wikipediahttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
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某掲示板では呉護衛艦隊または呉陸戦隊とも名乗る戦車と眼鏡っ娘が好きな物書きモドキ
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