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前年のスターリングラードとクルスクの勝利で圧倒的優位に立ったソ連軍は次々と攻勢をかけてはドイツ軍を西へと追いやった。ドイツ軍は最悪の事態である第2のスターリングラード、ソ連軍によって包囲されて破滅を迎えるのを避けるべく後退を続けてていたが、ドイツ第11軍団と第42軍団はウクライナのチェルカシイでその最悪の事態を迎えてしまった。
ヒトラーはすぐに対応を決めた。2個装甲部隊でチェルカシイの友軍と連絡を回復すべしと。
最初の計画では9個装甲師団で2個装甲軍団を編成してチェルカシイ救援に向かう予定だったが、ニコポリでの戦況悪化から第47装甲軍団はニコポリに向かってしまった。残るブライト将軍の第3装甲軍団だけがチェルカシイの希望となった。
第3装甲軍団は第1装甲師団・第16装甲師団・第17装甲師団・SS第1装甲師団「アドルフ・ヒトラー親衛隊」にベーケ重戦車連隊からなる部隊である。
この中のベーケ重戦車連隊という特異な部隊がある。これは指揮官フランツ・ベーケ中佐の名前から命名されたものであり、「重戦車連隊」と言う名も第503重戦車大隊のティーガーⅠ重戦車35両・第23戦車連隊第2大隊のパンター中戦車47両・第88砲兵師団第1大隊(フンメル自走砲装備)という重装甲かつ強力な火力の戦車が揃ったものである。
この強力な部隊に与えられた任務は作戦の先鋒を勤め、ソ連軍の戦線を突破する事であった。
ドイツ軍の誇る鋼鉄の虎と豹がその持てる力で第3装甲軍団の道を切り開き、チェルカシイのドイツ軍といち早く握手が出来るであろうと思われていた。
果たせるかな、2月4日から救援作戦は開始された。
だが、この時点で無理があった。作戦は第3装甲軍団とチェルカシイの部隊でソ連軍を包囲しようと言う夢想や妄想とも言える不可能な作戦である。この為にベーケの連隊はチェルカシイへは遠回りの北へ向かっていた。
1km進む事に戦車と対戦車砲と戦いながらも突き進む。だが、降雨での雪解けが戦車の大敵泥濘を生んだ。泥濘は重い戦車の足を引っ張り、こと重量級の戦車ばかりのベーケの連隊は進撃が鈍くなった。
それでもチェルカシイまであと30kmまで近づいた。だが、そこから動けなかった。
頓挫するかに見えた作戦もヒトラーがチェルカシイへの最短ルートである東に針路を変える事を許してから再始動する。
2月11日。東への進撃が開始される。今度は第1装甲師団が先鋒を勤める。
だが、その行く手を239高地が阻んだ。ここを占領すればチェルカシイまで10km。目前だ。
けれどもソ連軍は第5親衛戦車軍団を差し向けて高地を固く守る。
ベーケ重戦車連隊や第16装甲師団の戦車。武装SSの装甲擲弾兵大隊や急降下爆撃のエースであるルーデルの支援爆撃をもってしても239高地は落ちない。
ここに至り第3装甲軍団は兵力を消耗していた。600名の大隊が60名になり戦車の数も減っていた。加えて第16装甲師団・第17装甲師団・SS第1装甲師団がソ連軍と防衛戦を展開していた。もはや余力は無い。作戦はまたしても頓挫しようとしていた。
南方軍集団司令官エーリッヒ・フォン・マインシュタインは2月15日にチェルカシイの部隊(シュテンマーマン集団)に自力で第3装甲軍団の所へ脱出させる事を決意。2月16日には突破に自信が持てないシュテンマーマン集団に「合い言葉は<自由>、目標はシェリンカ、23時」と命じてシュテンマーマン集団を動かさせた。
マインシュタインはスターリングラード救援でパウルスの第6軍が自力での脱出を放棄した悲劇を身をもって知っているからだ。
そして、23時。シュテンマーマン集団は突破を試みた。ソ連軍を攻撃して血路を開き友軍の所へと向かい合い言葉の「自由」を叫んで握手をした。けれどもソ連軍も黙って見逃さない。だがドイツ兵も零下5度の川をソ連軍に撃たれながらも渡った。
こうした懸命のシュテンマーマン集団を援護すべく第3装甲軍団は援護する。ベーケの連隊が最後の燃料で239高地を攻撃して牽制をした。第1装甲師団の橋に、第37装甲工兵大隊がSS第1装甲師団に守られながら作った応急の橋が突破の道を築いていた。
こうして、2月19日に最後の兵を収容して作戦は終了した。
救えた兵は5万6000名中3万5000名。(またチェルカシイから2188名の負傷兵が空輸された)
こうして第2のスターリングラードは回避された。だが、この救出作戦でのドイツ南方軍集団の損害は大きかった。救った3万5000名もすぐ戦える訳でもない。消耗した装甲師団にも頼れない。
第3装甲軍団はソ連軍の新たな攻勢に火消し役を務めたが、南方軍集団全体がソ連軍との戦いを支えられず、ルーマニアへの入り口を開く事になるのである。
その2隻は「シャルンホルスト」と「グナイゼナウ」だ。
1月21日にドイツのキール軍港から出港した2隻は「ベルリン作戦」と言うイギリスへの通商破壊作戦の為に大西洋に出た。
60日あまりの長い航海で10万トンの船舶を撃沈した2隻はイギリス海軍の追跡を逃れて無事にドイツ占領下のフランスはブレストに辿り着くと言う成功を修めたが、英軍はそれまでの借りを返す、いやそれ以上の攻撃を空から行った。
ブレスト入港から一週間後から英軍が爆撃を始めた。爆撃で「グナイゼナウ」が入渠しているドックの中に不発弾が落ち、ドックから出された「グナイゼナウ」。そこへ雷撃を受けて魚雷1本が命中するという悲惨な目に遭った。「シャルンホルスト」も爆弾が命中して発電機室などを損傷した。
こうして2隻はブレストで英空軍の脅威を受けながら修理を行いつつ次の出撃を待つことになった。
9月。ヒトラーはドイツの戦艦を全てノルウェーに配備する事を決めた。ノルウェーに英軍が上陸するのを大きな脅威であるから防衛戦力として戦艦を置いておこうと考えたのだ。
ヒトラーは、5月の「ビスマルク」撃沈で戦艦への信頼を無くしていて、ノルウェー防衛の「砲台」としか見ていなかった。こうした考えによる「ノルウェーへの戦艦配備」にドイツ海軍総司令官エーリッヒ・レーダーは反対したが、ヒトラーはレーダーの意見をことごとく退けて「ノルウェー以外にいる艦はみな配置を誤っている」とさえ言った。これにより「シャルンホルスト」と「グナイゼナウ」をドイツに呼び戻す事となった。
2隻の巡洋戦艦を移動させると決めたが、それは困難があった。
ブレスト上空でも英空軍が跋扈している。更に外洋へ出れば英海軍の勢力圏。「ベルリン作戦」の奇跡は起きないとドイツ海軍は考えていたが、ヒトラーは最も危険な英仏を挟むドーバー海峡を通るべきだと主張した。あえて危険な所を通り英軍の不意を突くのだと。
もちろんこれにレーダーは反対したが、ヒトラーは実行できないなら戦艦をみな退役させて砲台と乗員をノルウェーに回せと脅し海軍の重い腰を上げさせた。
こうしてドーバー海峡を突破する「ケルベロス作戦」が1942年2月11日夜に実行された。2隻のと重巡洋艦「プリン津・オイゲン」は出撃する。まさに博打とも言えるこの作戦。だが、英軍がドイツ艦隊を発見したのは12日午前10時30分。スピットファイヤがドーバー海峡の手前で発見した。
これに艦隊の上空援護を指揮するドイツ空軍戦闘機隊総監アドルフ・ガーランドは「イギリス人はすぐに動き出さんさ。警報が出されるまで1時間はかかるだろうよ」と推測した。
ガーランドの言葉通りになった。英軍が独艦隊のドーバー海峡突破が本当であると確信し英軍が動き出したのは11時35分であった。
12時20分。ドーバー海峡を通過する独艦隊は英軍の沿岸砲から攻撃を受けた。命中はしなかったが、初めての英軍の阻止行為である。続いて魚雷艇も仕掛けて来たが艦隊は攻撃をかわして進む。
攻撃には「ビスマルク」を雷撃した第825中隊も参加したが、中隊は「ビスマルク」と同じくもはや時代遅れの複葉攻撃機を使って雷撃を敢行する。しかし、ガーランドの集めた戦闘機隊(昼間戦闘機250機・夜間戦闘機30機を集めて援護していた)の妨害と艦隊の対空射撃に回避運動で命中弾は無く5名が生き延びただけであった。これに「シャルンホルスト」のホフマン艦長は「かわいそうに・・・まるで自殺じゃないか」と言った。
その後は午後3時45分に英軍駆逐艦6隻と交戦するがこれも雷撃を回避して砲撃で撃退した。
英軍は更に攻撃隊を飛ばして独艦隊を求めたが接触できず、とうとう英軍は独艦隊を逃してしまう。
この英軍が後手に回ったのは何故か?それは独艦隊のドーバー海峡突破を予期して「フラー」という暗号名で警報を出す事にしていたが、上層部の一部しか「フラー」の事を知らなかった。これが対応の遅れる原因であり、ガーランドの予見を当ててしまう結果となった。これに輪をかけて哨戒機が悪天候で引き返したり、基地に航空魚雷が無くて雷撃隊が別の基地に向かう羽目になったりと、まるでドイツ軍に幸運の女神が微笑み英軍に悪魔が取り憑いたような展開となった。
けれども2隻の巡洋戦艦は無傷では無かった。ベルギー近海とオランダ近海で「シャルンホスト」は2度、オランダ近海で「グナイゼナウ」が英軍の機雷によって被雷した。
13日にドイツのウィルヘルムスハーフェンに入港した独艦隊。2度の被雷と戦死2名・重傷者数名。17機の戦闘機に中破した2隻の水雷艇と言う損害を出したが「ケルベロス作戦」は成功に終わった。
だが、12日後の2月25日から3日間ウィルヘルムスハーフェンは爆撃を受けて「グナイゼナウ」は大破。その後も主砲を28センチから38センチに換える改装工事を行っていたが、結局は放棄させられた。
「シャルンホルスト」は1943年12月26日の北岬沖海戦で英艦隊と交戦して撃沈された。
「ケルベロス作戦」自体は成功したが、それは最後のドイツ海軍水上艦隊の栄光となった。(その後はドイツの石油備蓄に余裕が無くなって駆逐艦ぐらいしか動かせなくなる)それは英首相チャーチルの演説がまさに物語っていた。
「敵が駆逐され、わが護送船団の航路に対する脅威がなくなった結果、状勢は現にわがほうに有利となった・・・大西洋に於ける海軍の形勢は、悪化するどころか明らかに楽になったと言って間違いはない」
「ケルベロス作戦」以降。大西洋ではUボートと魚雷艇ぐらいしかドイツ海軍の戦力は無くなり実質上英海軍は大西洋の制海権を獲得する事となったのだ。
昭和恐慌による低迷した日本を天皇中心の国家として再建しようと掲げたかれらは、岡田啓介首相・鈴木貫太郎侍従長・高橋是清大蔵大臣・斉藤実内大臣・牧野伸顕前内大臣・渡辺錠太郎陸軍教育総監の自宅や宿泊先を襲撃して殺害した。(岡田と牧野は脱出に成功。鈴木は重症を負いながらも生き延びる)
これらの人物は「天皇の側にいる害を為す人物」として狙われたのである。また、渡辺の殺害は教育総監の職を青年将校達から支持されていた真崎甚三郎から奪った人物を思われて怨恨のものであった。
要人暗殺に次いで、警視庁・首相官邸・陸軍省を占領。霞ヶ関と永田町・三宅坂は反乱軍に制圧された。
これで青年将校達は事は大方終わったものと思ったに違いない。
後は、彼らが慕う真崎甚三郎(当時は軍事参議官)に頼った。
事件発生直後の陸軍大臣官邸に来た真崎に反乱軍の中心人物である磯部浅一が
「閣下、統帥権干犯の賊類を討つために決起しました」
と言うと。真崎は
「とうとうやったか、お前達の心はヨオ分かっとる。ヨオ分かっとる。宜しきように取りはからうから」
と言った。として226事件を語る中では有名な場面である。
こうなると、真崎が青年将校と組んでいたと見るか、そうでなくとも行動を歓迎したものとして真崎黒幕説が出ている。
真崎甚三郎は陸軍士官学校校長時代には尊皇絶対主義の教育を行っていた。この時の生徒が、磯部や安藤輝三など226事件の首謀者達であった。
青年将校達は真崎を新たな日本の指導者に据えて、皇道派(陸軍では、尊皇重視の皇道派と政治に影響力を及ぼしてコントロールしようとする統制派で対立していた)によって革命を起こすんのだと考えていたに違いない。
だが、真崎は磯部達が望むように動かなかった。
陸軍大臣官邸に真崎が訪れた時に、その護衛を務めていた田崎末松は著書「評伝 真崎甚三郎」の中で「ヨオ分かっとる」と磯部に言ったのでは無く、「馬鹿者!何ということをやったのか」と怒ったとある。
また、同じ場所に真崎・国崎と同行した金子桂(当時憲兵伍長)も田崎の著書で真崎の一喝に磯部達は戸惑っていたとある。(「別冊歴史読本 未公開写真に見る226事件」より)
後も、27日には反乱軍に原隊復帰を命じる奉勅命令が翌日に出す事が決まると真崎は青年将校達に兵を退くべきだと説得している。
国崎の証言と後の真崎の行動は合致する。やはり真崎は決起自体を歓迎はしてなかったのだ。
多分に彼が望んだのは影響力の強い派閥としての皇道派だったのかもしれない。
また、青年将校達が何よりも敬う天皇はこの事件で「朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは 真綿にて、朕が首を絞むるに等しき行為なり」(「本庄日記」2月26日の条より。カナはひらがなにしてます。)と彼れの行動に憤りを感じていた。
国民は決起に同情する者が多く、陸海軍でも上下で同情する者も少なくなかった。だが青年将校達を引っ張るような人物は無く、何よりも天皇が「朕自ら近衛師団を率いて鎮圧する」と行って断固鎮圧を決定した事が大きかった。
これで軍は鎮圧へと意思統一したのだ。
もはや自ら政府を立てる力も無し、頼る者も無く2月29日にはラジオとビラ撒きで「勅命下る」での説得が行われて青年将校達は部隊を原隊に戻す事を決めた。
2万3000名以上の鎮圧部隊に囲まれながら反乱軍の部隊は粛々と原隊へと向かう。中には昭和維新の歌を合唱しながらの部隊もあった。
こうして、日本最大のクーデターは終わった。
青年将校達は、野中四郎と河野寿(陸軍飛行学校学生)が自決。磯部・安藤ら16人の将校は軍法会議で死刑判決を受けて銃殺された。民間人の活動家北一輝も理論的首謀者と言う理由で西田税と共に死刑判決を受ける。他の将校や下士官も無期禁固から懲役1年6ヶ月の判決を受けた。
かくて、昭和維新は潰えた。だが、あのクーデターで彼らの望む展開になったとしても後の激動をどう乗り越えられる日本になるだろうか?
東南アジアの資源地帯攻略の一環としてマレー半島に上陸した日本軍は12月と翌年1月末までに1100kmもの作戦距離を制してマレー半島を占領した。次に日本軍はマレー半島南端の先にあるシンガポール攻略を準備にかかる。シンガポールは要塞と、大規模な軍港もあるイギリスの「東洋の牙城」と言われる重要拠点だ。
日本軍はマレー半島を攻略した山下奉文中将指揮の第二五軍に引き続きシンガポール攻撃を行わせた。
その兵力は近衛師団(東京)・第五師団(広島)・第一八師団(久留米)を中心に5万の兵力。対してシンガポールのイギリス軍アーサー・パーシバル中将には書類上では8万5000と言う兵力があった。(実際は6万か7万人ぐらい?当時の第二五軍は3万と謝った推測をしてた)
シンガポール攻略を前にして第二五軍は部隊の移動や弾薬・資材の集積を急ピッチで進めた。部隊移動は先行していた(ジョホールバール一番乗りで両師団が競争していた)近衛師団と第五師団から自動車500両を出して第一八師団主力を移動させた。弾薬・物資もクアラルンプールからゲスマまで鉄道で1日1000トン運び。そこから自動車で第二五軍が集結するジョホールや、弾薬集積所に運ばれた。だが、航空隊の物資輸送を行う余裕が無く、第二五軍と第三飛行集団との関係が悪化する問題が発生してしまった。第三飛行集団はインドネシアのパレンバンへの空挺作戦を控えていた事もあり、その憤りは高まった。問題は1月26日に海路で航空隊用の物資が運ばれた事で解決した。
2月8日午前10時。第二五軍の軍砲兵(野戦重砲第三連隊長長屋朝生大佐指揮の野戦重砲兵第三と第一八連隊基幹)が攻撃準備の砲撃を開始、正午には師団砲兵も加わり英軍もこれに一時は沈黙したが砲撃で反撃し、日本軍の砲兵観測所が損害を受けた。
日中の砲撃戦の後、深夜(午後11時から翌9日未明)には第二五軍の3個師団が舟艇でシンガポールとマレー半島を隔てるジョホール水道を渡河した。幅が1kmから600ないし300メートルの水道を各部隊は舟艇に乗ってシンガポール島目指して暗夜を進む。だが、英軍の射撃に舟艇の故障・水道が干潮であった為に舟艇が浅瀬に乗り上げるなど混乱が生じて各部隊の一斉上陸と言う作戦計画は崩れてバラバラでの上陸となった。
だが、英軍は退却して日本軍はシンガポールへの足がかりを得る事が出来た。
シンガポール島の北に上陸した第二五軍は2月11日の紀元節(「日本書記」に書かれた神武天皇即位の日を祝日にした日)にシンガポールを攻略しようと考えていたが、英軍の反撃はまだ続き望みは薄かった。
その2月11日。シンガポール島中部に進出した第五師団と第一八師団がブキテマを攻撃した。前日の深夜からブキテマ周辺に進出して体勢を固めていた両師団であったが、英軍は猛烈な砲撃に掻き集めた戦力でブキテマの南から反撃をも行う激しい抵抗で、白兵戦も何度も繰り返された。
だが、13日未明に英軍はブキテマ周辺の高地である200高地から撤退。ここに「ブキテマ高地の戦い」を制した日本軍であったが、それからも退く英軍の衰えない抵抗振りに最終目標のシンガポール市街地への突入は遠いものであった。
ここで第二五軍の力が尽きようとしていた。弾薬が底をついたのだ。
シンガポール攻撃から7日目にして訪れた危機に第二五軍司令部は焦燥感に満ちた。ここで攻撃を中断すれば英軍の大規模反撃を招くかも知れない。だから銃剣突撃に頼ってでも攻撃続行を決めた。
第二五軍の面々では、山下軍司令官が第五師団戦闘指揮所まで出向いて督励し、第一八師団長牟田口廉也中将は第1線連隊の隊長の所へお訣れ(おわかれ)を言いに行くなど、第二五軍の上級指揮官達を精神的に追い詰めていた。
15日未明。第五師団はシンガポールの水源地の南側を占領した。午前9時30分からも攻撃を続行する第五師団だったが、午後2時に師団の所属部隊(杉浦部隊)に英軍の軍使が現れた。
その後も師団は125高地攻撃を続行していたが、午後6時に125高地から白旗が上がった。他の師団も軍司令部からの情報で午後8時には英軍が降伏した事が伝わる。
8日目にして、シンガポールでの戦闘は終わった。
英軍が降伏した理由は水源地が日本軍に占領された事であった。またジョホールからシンガポールに水を送る送水管を遮断していた。
午後7時からフォード自動車工場で山下とパーシバルの会見が開かれた。
パーシバルはシンガポールの混乱を防ぐ為に治安維持の1000名の武装兵を残したいと主張。これに山下は「治安維持は日本軍が行う」と言ったが、パーシバルは折れず、「攻撃続行をする」と山下は武装兵の件を拒否した。パーシバルは「攻撃は困る」と言い、山下はここで降伏の意志があるかどうか再確認するために有名となる「イエスか」「ノーか」で迫る。これにパーシバルは「イエス」と答えたが、相変わらず武装兵の事を認めて貰いたいと主張したが、降伏文書の調印に至る。
ここで午後10時に停戦と決まり、シンガポールの戦いは日本軍の勝利に終わる。
(パーシバルの1000名の武装兵は無かったように思える。翌16日には日本軍の第二野戦憲兵隊をシンガポール市街地に入って治安維持に努めた。多分に、パーシバルの意地で武装兵の話を繰り返したのだろう。それでもイギリス人にとっては市内のマレー人や中国人などから襲われると危惧したのかもしれないが)
明治時代の帝政ロシアは不凍港を求めて南下政策を行っていた。
ヨーロッパと陸で繋がっていたロシアではあったが、海上交易による莫大な利益の窓口として冬季に氷で塞がらない港を欲していた。
露土戦争(1768年 - 1774年)でオスマントルコ帝国からクリミア半島を割譲。黒海の窓口を得る。19世紀にはコーカサス地方を併合し西の南下政策は進んだ。
そして東での南下政策。幕末に樺太・千島を日露の国境とした。明治になると千島を日本・樺太をロシアと交換する条約を締結。1860年に清国とは太平天国の乱で結ばれた北京条約でアムール川(黒竜江)の以北、ウムール川の以東の外満州を割譲。1900年の北清事変では日本や欧米列強の出兵に協力するのを機会に満州全土を占領した。これに日英が危機感を抱いて日英同盟が結ばれる事となる。
日英同盟の圧力でロシアは満州から撤兵すると約束したが、期限が過ぎても全部隊の撤兵せず日露の危機感を煽り日本は特に保護国としていた朝鮮と満州が接する緑鴨江朝鮮側河口の付近でロシアが大規模な森林事業を展開。日本の権益を脅かす形となり日本の世論はロシアと戦うべしと言う気運が強くなった。政府内は開戦と和平で割れていたが、ロシアの皇帝ニコライ2世が主戦論に同調。ここに日露は妥協点を失い1904年(明治37年)2月6日に日本政府はロシアへ国交断絶を通告。日露戦争が始まるのである。
日露戦争での第一撃は日本軍であった。
国交断絶から3日目の2月9日。日本海軍の第一駆逐隊(白雲・朝潮・霞・暁)第2駆逐隊(雷・電・朧)第3駆逐隊(薄雲・東雲・漣)の駆逐艦10隻が深夜の闇の中で遼東半島の旅順へと向かっていた。
遼東半島は日露戦争で一時は日本が占領していたが、戦後の三国干渉で日本から取り上げた。れからロシアが清国より租借し、旅順に軍港を置いて艦隊を配置していた。
日本軍は開戦初日で旅順のロシア艦隊に大打撃を与えようとしていた。その一番槍が駆逐艦に与えられたのである。
2月9日午前0時28分。旅順港の外に停泊するロシア艦隊へまず「白雲」が魚雷を発射。残る9隻も続けて発射した。(数は手元の資料では発射数が20本か16本と食い違う)
命中は3本。戦艦「レトヴィザン」・「ツェザレウィッチ」巡洋艦「パルラーダ」が大破した。
旅順への攻撃は続き、昼近くに東郷平八郎連合艦隊司令長官率いる連合艦隊主力が旅順沖に現れた。
11時45分。開戦命令を告げる信号旗が旗艦「三笠」のマストに上がり「勝敗の決、この一戦にあり。各員努力せよ」と激励した。
午後12時9分。連合艦隊第一戦隊は砲撃開始。ロシア艦隊も応戦、これに旅順の砲台も援護に加わる。
砲撃戦は30分続いたが、撃沈された艦は両軍共に無く、損害も大きなものは無く終わった。
開戦初日である程度の損害を旅順のロシア艦隊に与えた日本海軍であったが、これ以後ロシア艦隊は旅順港奥に引き篭もりバルチク艦隊の来航と共に日本海軍を悩ます事になる。
旅順より南の朝鮮半島の仁川。ここでも海戦が起こった。
戦前から日本海軍三等巡洋艦「千代田」は仁川港にあった。国際港である仁川にはアメリカ・イギリス・フランス・イタリアの艦艇も停泊していて、その中でロシアの二等巡洋艦「ワリヤーグ」と砲艦「コーレツ」を睨んでいた。
2対1であり、性能も「ワリヤーグ」より劣る「千代田」はロシア艦の動向に神経を尖らせ夜間は砲術科と水雷科を戦闘配置に就けて不測の事態に備えていた。
2月8日。瓜生外吉率いる装甲巡洋艦「浅間」に第四戦隊(巡洋艦「浪速」・「高千穂」・「新高」・「明石」)が陸軍部隊を乗せた輸送船と共に仁川沖に到着。「千代田」はこれに合流して劣勢から圧倒的優位な状況となった。
同日夕刻から陸軍部隊をロシアや諸外国の艦艇が見る中で仁川に揚陸させた。これは日本の開戦する意志は確実であると広く伝える事になった。
9日未明に揚陸を終了。午前7時。旅順での第一撃が終わって数時間後、瓜生は「ワリヤーグ」のルードネス艦長へ挑戦状を送る。
「本日正午までに港外に退去せよ。さもなくば、午後4時を期して港内で攻撃を開始する」
瓜生の「浅間」に第四戦隊は仁川沖に待ち構えた。圧倒的不利で留まるも進むもどちらにしても勝機も活路も無かったが「ワリヤーグ」の艦長は瓜生の挑戦を受けて、仁川港を出港する。
午後12時20分。瓜生戦隊は出港した「ワリヤーグ」と「コーレツ」へ砲撃開始。
1隻づつの巡洋艦と砲艦のロシア軍。1隻の装甲巡洋艦と5隻の巡洋艦の日本軍。勝負は最初からついていた。命中弾11発を受けた「ワリヤーグ」は仁川港へ逃げ、午後1時に自沈。「コーレツ」も火薬庫を爆破して自沈した。
敗軍の将となったルードネスと「ワリヤーグ」乗員達は帰国すると英雄として迎えられた。劣勢でも立ち向かった勇者として。
この9日の戦いで日露戦争は実質始まり。翌10日には日本政府から対ロ宣戦布告がなされる。
開戦初日の日本海軍の行動は旅順・仁川のロシア海軍戦力を撃滅して残るウラジオストクの艦隊・来航するバルチク艦隊に備えるものであったが、旅順艦隊の撃滅が思うように完遂出来なかった事が3度の閉塞作戦に黄海海戦。ついには激戦となる旅順攻防戦へと繋がるものとなり旅順艦隊が日本軍の戦略的な足枷となった。