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それに少しちなんで、今回は軍事から鉄道な要素を取り上げてみよう。
日清戦争後の1896年(明治29年)に鉄道大隊(初代大隊長、吉見精工兵中佐。大隊は鉄道2個中隊・電信1個中隊・材料廠からなる)を編成したのが日本陸軍鉄道部隊の始まりとなった。
日本陸軍が鉄道部隊を持った理由は日清戦争で馬匹による輸送が困難であると痛感し、軍事輸送に使える自動車がまだ無い時代では新たな輸送手段として鉄道を必要としたからだ。
そこで日本陸軍は自ら鉄道を敷設し、列車を運用する鉄道部隊を創設したのである。
まず、装備されたのはイギリスのバッグナル社製B型サドルタンク機関車2両と各種貨車であった。それらの車輌を使い訓練が始まった。
しかし、その機関車は軌間は610ミリ。だが、使用する軌道は輸入した600ミリでサイズが合わないために脱線のトラブルが起きたそうだ。
1900年(明治33年)の北清事変(義和団事件)では鉄道大隊から1個中隊を派遣した。部隊は北京-天津間鉄道の豊台以東の修理を担当し、ドイツ軍が担当する廊坊以南にまで修理した。
しかし、1901年1月1日。吉見大隊長が戦病死し、井上仁郎中佐が代わって指揮をした。
この北清事件で鉄道大隊はドイツ軍鉄道部隊の区画と接して作業していた。そのドイツ軍の作業を見たせいか事変後にはドイツやオーストリアに将校を派遣して軍用鉄道の技術を研修させた。そして訓練もドイツ方式になった。
事変後。鉄道大隊は2個中隊から3個中隊に増強された。
1902年(明治35年)に鉄道大隊から電信中隊が電信教導大隊に拡大し、鉄道大隊は鉄道隊に改編した。
1904年(明治37年)に勃発した日露戦争で日本の鉄道部隊の力量が試される事となった。
日本は日露戦争に備えて軍用鉄道用に188組もの機関車や狭匡や資材をドイツに発注したがほとんど到着しなかった。
しかし、鉄道大隊にはB型サドルタンク機関車2両と双合機関車(2つの同型機関車を背中合わせで接続して1両とした機関車)が5両。5トン積みの貨車が若干という大部隊を支えるには貧弱な輸送能力しか無かった。
そこで、韓国の京釜鉄道にあるアメリカボールドウィン社のC型タンク機関車30両。開戦後に25両に水タンクの容量を大きくした準同型機27両を引き抜いて不足する機関車を揃えた。
また野戦鉄道提理部(竹内徹工兵中佐。臨時軍用鉄道監部とは別組織)が日本国内の鉄道各社から車両と技術者を遼東半島に送った。
戦場に近い韓国に京城(ソウル)-義州間の鉄道(京義線)を建設する為に臨時鉄道大隊が編成さた。開戦から1ヶ月後に韓国仁川へ到着し、測量作業を行って後続の臨時軍用鉄道監部(山根武亮少将。工兵4個大隊・後備工兵中隊が主力)と日本から動員した建設請負業者が進出した時に作業を早く進める様にした。
臨時鉄道大隊は7月末に測量作業を終えて安東ー奉天間の鉄道(安奉線)建設に着手した。この安奉鉄道は軽便鉄道でありながら区画総延長約124キロの長大な路線となった。
一方で野戦鉄道提理部は鉄道作業局からの軍属を含めて900人以上を動員してロシアが敷設した東清鉄道を広軌から狭軌に改軌する工事が行われた。日本国内の転輪機材を使うには狭軌に変える必要があったからだ。野戦鉄道提理部が7月に遼東半島に上陸して以来3ヶ月以上かけて1日8往復の軍用鉄道の運用が可能となった。そして大連-鉄嶺間を1日16往復までに輸送能力は拡大した。これは工事に従事した作業員や機関士の努力の賜と言える。
野戦鉄道提理部は8300人以上に規模を拡大していた。戦後は臨時軍用鉄道監部を引き継ぎ、1907年(明治40年)には路線を南満州鉄道に引き渡した。
参考文献
・「別冊歴史読本 日本陸軍機械化部隊総覧」 新人物往来社
・「軍用自動車入門 軍隊の車輌徹底研究」 高橋昇 光人社NF文庫
歴史群像2005年6月号「陸軍鉄道部隊 戦線を支えた鉄路の工兵」 松代守弘
昭和19年には近衛文麿と岡田啓介は戦力を大幅に減らす決戦を行えば軍も国民も納得するだろうと考えていた。2人は海軍にそれを当てはめて考えていた。
だが、問題は陸軍であった。太平洋戦争では最大で1個師団ごとの戦いしかしなかった為に「何十万の兵力で戦う決戦をしてない」という認識があった。フィリピン・ルソン島では28万名以上の兵力で昭和20年1月の米軍上陸を迎え撃つが、激しい抵抗の末にルソン島の山岳地帯に追い込まれる。
沖縄戦でも2個師団を中心に10万名で迎え撃つが2ヶ月後には組織的な抵抗は不可能となった。
米軍の圧倒的な陸海空の戦力に敗退しても陸軍は徹底抗戦を強硬に訴えた。
だが、そんな陸軍も勢いを失う兆候があった。
「陸軍は此の戦局に自信を失って来て居ると見て居る。夫れは陸軍はソ連の出方を非常に恐れて、(一)中立条約を延長し、(二)和平斡旋を依頼し、(三)大東亜戦争の終結を望んで居る。その意味はこの戦争に自信がなくなっている為と想像するが併し口に出して云わぬ。特に梅津(陸軍参謀総長)は判然して居らぬ」
(「米内光政海相口述覚書」昭和20年5月14日)
5月7日にドイツが降伏した為に米英と戦うのは日本だけとなり、ほぼ孤立無援となった状況に陸軍が自信を失ったようだと米内光政海軍大臣は感想を抱いたようだ。けれども、口からは本土決戦を声高に叫んでいた。
しかしながら陸軍では内部崩壊に近い状況が起きている事は実感していた。7月25日。軍紀・風紀を主題に方面軍参謀副長と兵務担当参謀とで会合が行われた。ここで「軍紀逐次弛緩。離隊逃亡が違反行為の6割」・「離隊の原因は食糧不足」・「特攻隊員の悪質犯罪」・「物欲色欲に起因する犯罪が多発」と報告された。これは日本本土にある部隊の将兵についての報告であり、陸軍が望む本土決戦を行う部隊は軍隊としての機能を失いかけていた。
とはいえ。陸軍が本土決戦を諦めて米英との講話をすべきと口にはしなかった。代わりにソ連を仲介しての終戦ならば望んだ。
その対ソ交渉は成功の見込み無く行われた。箱根で元首相の広田弘毅が駐日ソ連大使ヤコブ・マリクと私的に会うと装い対面するが、マリクは広田がソ連の動向を探りに来た事を見抜き広田は何も得る事無く会談は終わる。
また、ソ連も4月5日に翌年で期限が切れる日ソ不可侵条約の破棄を通告。日本政府は条約の延長と和平工作の依頼をソ連に行おうとした。また特使として近衛文麿をもモスクワに送るとスターリンに申し出ようとした。だが、この交渉をする駐ソ大使佐藤尚武はソ連が日本とアメリカの仲介をするのは有り得ない事だと知っていて逆に東京へ早期終戦をすべきだと意見を伝えた。
対ソ交渉は初めから成功の見込み無しではあったが、前にも書いた通り。米英を交渉に呼び込むブラフとしてソ連への接近を装ったのでは?と思う。
そうなると、陸軍も遠回りに米英との戦争終結を望んでいたと言う事でもあるのかもしれない。
7月16日。アメリカは原爆実験を成功させて原子爆弾の保有国となった。
7月26日。連合国はポツダム宣言を発表。
日本は追い詰められた。アメリカの原爆については知らなくても日本を連合国が占領と書かれたポツダム宣言。東郷茂徳外務大臣は当面は意思表示するべきではないと言う原則を出したが、軍の強硬派の圧力から鈴木貫太郎首相は7月28日に記者団にこうポツダム宣言について意見を述べた。
「私は三国声明(ポツダム宣言の事)はカイロ宣言の焼き直しと思う。何ら重大な価値があるものとは思えない。ただ黙殺するのみである。われわれは断乎戦争完遂に邁進するのみである」
(「朝日新聞」昭和20年7月30日付け)
ここで終戦の問題でよく取り上げられる「黙殺」という言葉が出た。
だが、鈴木首相は戦後の回想「終戦の表情」で「この宣言は重視する要なきものと思う」と7月28日に記者団に述べたと書かれている。つまり、鈴木から「黙殺」の言葉は出なかったのだ。
では、何故に「黙殺する」と言ったと新聞は書いたか?それは7月27日に内閣書記官長(今の官房長官)迫水久常が記者団との懇談会で
「日本政府としては受諾するといった態度がとれない重要視しないというか、ネグレクトする方向でいくことになるだろう」
と語る。この「ネグレクト」の意味で記者団から「黙殺か?」と聞かれると。
「黙殺?ネグレクトは黙殺ともいえるかなあ」
とやり取りがあった。また迫水は「大きく新聞のトップか何かで『ポツダム宣言黙殺!』っていうように扱かわんでくれ」とも言った。
迫水の意向を了承して朝日新聞7月28日付けでは2段見出して6行の記事で「帝国政府としては何ら重大なる価値のあるものに非ずとしてこれを黙殺すると共に、断乎戦争完遂に邁進するのみである」と書いた。
つまり、黙殺とはっきり言ったのは迫水であり、鈴木では無かった。だが政府としては受諾する方向ではないと言う意志表明では同じだった。当時のマスコミも鈴木が迫水と同じ意見であったから「黙殺」と述べたと書かれた。
けれどもこの「黙殺する」は日本の同盟通信社が「ignore(無視する、知らないふりをする)」の意味で海外に報じた。アメリカのAP通信やイギリスのロイター通信は「ignore」を「reject(拒否)」と言い換えて報じた。連合国は日本の黙殺を「ポツダム宣言拒否」と解釈した。
しかし、アメリカは7月25日。ポツダム宣言発表前にトルーマン大統領が原爆投下を命令していた。また、ソ連も日本が和平仲介や日ソ不可侵条約延長を頼んでも2月のヤルタ会談で対日参戦を決めていた。
日本への新たな打撃を与える戦略は日本の意向に関わらず動き出していた。
8月6日。広島市に原爆投下
8月9日。長崎市に原爆投下、ソ連対日参戦
9日。最高戦争指導会議では、この新たに悪化した局面にポツダム宣言受諾で閣僚の意志は固まろうとしたが戦後の天皇の扱いで暗礁に乗り上げた。ここにジョゼフ・グルーがポツダム宣言に盛り込もうとした「天皇制の保証」を削除した事が響いていた。
また、陸軍大臣阿南惟幾は戦犯処罰等に条件を付け
「ソロバンずくでは勝算のメドはないが、大和民族の名誉のため戦いつづけるうちは何らかのチャンスはある」
と徹底抗戦の主張を改めて言い、東郷外務大臣の「国体護持のみを条件に降伏の意見と衝突した。
この時、陸軍では政府の動きを読んでいて、阿南が陸軍省に居るとクーデターを起こしてでも戦争継続をすべきと迫る強硬派将校の圧力を受けていた。彼らを抑える為には「陸軍としては戦争継続を望む」という立場を貫く必要があった。だからポツダム宣言受諾を決断する直前まで阿南は異常とも言える程に閣議で徹底抗戦を訴えたのだ。
9日午後11時50分から開かれた御前会議。ここで結論が出ない事から鈴木首相は天皇に決断を仰いだ。
「私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理だと考える」
と戦争継続の意志は無いと表明した。
「陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領というようなことはまことに堪え難いことで、その心持は私にはよくわかる。しかし自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい」
「この際私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前にも立つ」
と軍への理解を示しつつ、終戦の為ならば出来る事があればするとも言った。
これがポツダム宣言受諾の「御聖断」である。時に昭和20年8月10日未明の事である。
外務大臣原案(国体護持を条件としたポツダム宣言受諾)で降伏と決まり、中立国経由でアメリカに伝えられた。
アメリカはグルーや米海軍は戦後統治を円滑にするためには天皇の存在は必要と考え日本の条件には賛成だった。しかし、バーンズ国務長官は
「誰が天皇になっても天皇制が残ればいいんだろ」
と海軍長官フォレスタルに語った。そのバーンズはポツダム宣言に変更をしない事で遠回しに「天皇制を認める」意志表明を日本に回答した。
この不透明なバーンズの回答に日本では再び混乱が起きる。「天皇を連合国軍の制限下の置く」とする箇所の「subject to」を陸軍は「従属する」と解釈して国体護持はできないと不満を表した。また大西滝治郎海軍軍令部次長が「今後二千万の日本人を殺す覚悟で特攻として用うれば決して負けはせぬ」と外務大臣・陸軍参謀長・海軍軍令部総長が会見中に乗り込んでそう意見する場面があったりと不穏な空気が流れた。
だが、8月14日の御前会議で天皇は
「わたくし自身はいかにんろうとも、国民の生命を助けたいと思う」
と改めて降伏の聖断をした。これによって日本の降伏は決定された。
だが、14日深夜には皇居を守る陸軍近衛師団が決起した。天皇が全軍・全国民に降伏したとラジオで伝えるレコード「玉音盤」を奪い終戦への流れを変えようとした。また、陸軍横浜警備隊は首相官邸や鈴木首相の自宅を襲った。だが、これらの反乱は朝までに治まった。
8月15日正午。前夜の嵐を乗り越えて玉音盤から流れる天皇の声が全国や海外の占領地域に飛ぶ。
水面下の工作を含めると昭和19年から1年以上の月日の末に降伏して終戦の決断ができた。
日本においては軍部をいかに納得させて降伏させるかが鍵となり終戦の決断をする時期を見極められなかった。
アメリカは日本に妥協する和平があるもののハードピースの路線で戦略は進んだ。
タイトルの「終戦に原爆は必要か」の結論を出すならばあえて「必要無い」と言おう。御前会議の決定が原爆投下後にしても、アメリカは日本がどうすれば和平に応じるかを知っていたし、日本も現場だけの活動ではあるが米英との和平交渉の窓口があった。原爆投下以外の和平に繋がる選択肢がある以上は「原爆投下以外の和平の可能性はあった」と今回は締め括りたい。
原爆投下でこそ終戦が出来たと言うには今も尚原爆投下で受けた後遺症で苦しむ人々の上に平和があると考えると心が痛むからだ。
参考文献とサイト
「歴史群像2005年8月号」
「月刊歴史街道2005年9月号」
「日本海軍の終戦工作~アジア太平洋戦争の再検証~」纐纈厚著 中公新書
「太平洋戦争の意外なウラ事情~真珠湾攻撃から戦艦「大和」の特攻まで~」太平洋戦争研究会 PHP文庫
日瑞関係のページ http://www.saturn.dti.ne.jp/~ohori/sub15.htm
たむ・たむ(多夢・太夢)のページhttp://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/IRIGUTI.htm
Wikipediahttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
日本がソ連に和平の仲介を依頼しようと動いてた。
対するアメリカでは、どうだったか。
1943年のカイロ宣言では米英中(中華民国)の首脳の間で「日本の無条件降伏を目指す」と方針が決まり。1945年2月のヤルタ協定ではソ連の対日参戦がドイツ降伏後に行われる事を決めた。表の外交では強硬になるアメリカであったが、政府内部ではハードピース派とソフトピース派で日本とどう戦争を終わらせるかで分かれていた。
ハードピース派は日本を無条件降伏させるのが目的で、その為には日本本土上陸作戦をも行うべきだと主張する一派である。ソフトピース派は戦争の早期終結には無条件降伏で無くても良しとする一派である。
ソフトピース派には国務次官兼国務長官代理のジョセフ・グルーがいた。グルーはかつて駐日大使を務めた人物で日本を知る人物であった。
グルーは1945年5月28日にハリー・トルーマン大統領へ「ソ連参戦前に日本へ無条件降伏が天皇制廃止を伴うものでは無い」と伝えるべきだと進言した。また、陸軍長官ヘンリー・チムソンが日本に降伏勧告する宣言をすべきだとする覚書を7月2日に大統領へ提出した。ここでも「天皇制は保証する」と盛り込まれた。
しかし、ジェームス・バーンズ国務長官は日本降伏の勧告となるポツダム宣言に天皇制維持の項目を削除した。これが日本の決断までに混乱を起こす事となる。
しかし、それまでアメリカでは日本との早い戦争終結を目指して戦時情報局のザガリアス海軍大佐はコードネーム「ドルフィン」と呼ばれたルートから日本の和平派の動静を探ろうとした。情報はスイスのダレスなど、日本が和平工作していたルートから得られた。
更にザガリアスは対日放送で「無条件講話は日本の奴隷化を意味せず。天皇の地位もいくらか認める」と言う内容を日本へ向けて放送した。
しかし、このザガリアスの工作はルーズベルト大統領の死去で頓挫した。大統領に新たに就任した副大統領のトルーマンはルーズベルトから終戦をいかにするかの構想を知らされないまま(他の閣僚も)死去した為にザガリアスが独断で対日放送で降伏を呼びかけても日本同様に上下の意思統一が無いからポツダム宣言作成以外の降伏に向けた外交の動きは取れなかった。
6月8日。沖縄戦は首里は既に陥落して日本軍守備隊は沖縄本島南部へ追い詰められていた。そんな戦局で御前会議で改めて本土決戦遂行が決定される。
同じ頃。木戸幸一内大臣は東大教授高木八尺と南原繁の作成した終戦処理試案「時局収拾対策」をまとめていた。内容は早く終戦を決断しなければドイツと同じ運命を辿ると警告し、
「極めて異例にして且つ誠に畏れ多き事にして恐懼(きょうく)の至りなれども、下万民の為め、天皇陛下の後勇断を願い申し上げ、(中略)戦局の収拾に邁進する外なしと信ずる」(木戸幸一日記下巻)
つまり、天皇が終戦を決断させる事で戦争終結を図る構想が近衛文麿に続いて生まれた。
6月9日。陸軍参謀総長梅津美治郎は中国方面の視察から戻り、天皇へ「中国方面の部隊は弱体化し、米軍とまともに戦えない」と実状を報告した。これは、本土にある装備に事欠き人員も中高年や病弱な者をも根こそぎ動員した部隊より、遙かに装備も人員も充実している筈の中国にある部隊が「米軍とまともに戦えない」と陸軍参謀総長が報告したのは「日本陸軍はもう戦えない」と遠回しに言ったのだ。
6月12日には海軍軍備を調査した長谷川清大将が動員の杜撰さや訓練の不足などを天皇に報告。天皇は「そんなことであろうと想像していた」と述べたと言われる。
この2つの報告で天皇は日本が本土決戦は出来ないと確信する。
6月22日、沖縄陥落。天皇は最高戦争指導会議構成員会議(政府・軍の首脳での会議)でこう言った。
「先般の御前会議の決定の如く(6月8日の御前会議)飽く迄戦争を完遂するということも一応尤もであるが一面、時局の収拾についても考慮する必要があろう、これについてどう考えるか」(外務省編纂「終戦史録」)
ついに天皇の口から終戦に向けて動くべきだと言う言葉が出た。
しかし、その最終決定までにあと50日以上の日数を待たねばならない。
近衛のシナリオではこの鈴木内閣が終戦の為の内閣である。東条・小磯と陸軍の人間が総理で戦争を進めてきた事を考えれば政局の流れが変わったと言える。
東京の政局から目を離せば、東京をはじめとする各主要都市はB29の爆撃を受けて灰燼と化していた。硫黄島は陥落して、沖縄には米軍が上陸して守備隊と激戦を繰り広げ、海軍も戦艦「大和」を失った。もう本土は前線と銃後の境が消えようとしていた。
この危機的状況だったが、鈴木内閣は本土決戦での徹底抗戦を決定するのであった。
この時の終戦工作として近衛は2月14日に天皇に拝謁して
「敗戦は早速必至なりと存候」
と始まる奏上を天皇に申し上げた。内容は陸軍がソ連と提携する赤化の兆候があると警告した。これは戦争継続の為には陸軍はどんな手段も厭わない偏った思想を持っていると言っていると解釈出来る。近衛はこの強硬な陸軍を人事で粛正しようと考えた。(粛軍後の陸軍の再編には山下奉文大将が適任だとされていた)
しかし、人事の異動は軍内部を様変わりさせる(終戦のために)ものである。これを断行する為には「もう一度戦果を上げなければ難しい」と天皇は発言した。敵に一矢報いて納得して貰った後でないと軍部は人事の問題には応じないのでは無いかと考えたのであった。
下手に触れれば破裂する軍部と言う風船に天皇も近衛も決定的な抑えを何処でするか悩んでいた。
その一方で対外的な終戦工作も行われた。
先に述べた小磯内閣の対中和平工作は重慶の国民党政府の代表だとする繆斌(みゅうひん)を通じて対中和平を行うとしたが、小磯内閣では激しい反発を起こした。けれども総理の小磯だけが乗り気で繆斌を日本に呼ぶまでしたが閣僚が動かねばどうにもならない。結局はこれが小磯を失脚させる事となる。
スイスでは、藤村一義海軍中佐(スイス駐在海軍武官)が反ナチのドイツ人のフリードリヒ・ハックを通じてアメリカの諜報機関OSSのアレン・ダレスと終戦に向けた工作を行った。(藤村工作)
しかし、藤村が海軍省に報告を上げても「敵の謀略の可能性あり」「本件を外務省に一任」と海軍を通じて政策に反映させる事は出来なかった。
同じ頃、スウェーデンでは陸軍の小野寺信大佐が親日家のプリンス・カールを通してスウェーデン国王に働きかけてイギリス国王へ日本の皇室に終戦の斡旋をしてもらう工作を日本へは秘密で行った。(小野寺工作)
しかし、この工作は日本の陸軍上層部の知る所となる。6月に陸軍参謀総長梅津美治郎大将から「中央の方針に反し和平工作をするものある情報あり」と電報が小野寺に渡る。陸軍は小野寺に「余計な行動は行うな」と釘を刺したのだ。
情報を漏らしたのはスウェーデン公使の岡本季正であった。彼は外務省に小野寺の行動を報告し、それが陸軍の知る所となる。
この2つの工作は英米への窓口を開くものであったが、日本政府はソ連の仲介で終戦に向かう方針を決めていた。7月には近衛を特使にソ連へ派遣する事が決まる。この対ソ交渉へ政府は外交を一本化した。これが2つの交渉を中断させる事となる。
また、終戦と言う事業を口に出す事が海軍にしろ陸軍にしろ外務省にしろ難しい事でもあったと言える。小野寺の例を見ても思わぬ形で情報が漏れ(日本の暗号はアメリカに解読されていたが)せっかくの工作も崩れかねない事になる。
だが、その対ソ交渉も1945年2月のヤルタ会談でソ連の指導者スターリンが対日参戦の約束をアメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相に約束していた。日本はそれを知ってかしらずか日ソ不可侵条約の延長をソ連が参戦する直前に申し入れるのである。
これを見れば日本政府は愚かな行動に出たと見える。けれども資本主義のアメリカやイギリスから見れば日本が社会主義陣営に近づくと言う戦後世界を見据えていた両国から見れば「見逃せない」状況を作りだして交渉に引き込もうとしたのかも知れない。
けれども、対外交渉が政府・陸軍・海軍・外務省とで統一して行われなかった事が窓口を有効利用できない原因になったのは間違いない。その理由は陸軍による実力行使を伴う抵抗が現実に考えられたからであった。
先月30日に発言した内容を要約すると
「原爆投下で戦争終結でき、ソ連に北海道を占領されずに済んだ。だから、原爆投下はしょうがないと頭の中では整理している」
俺が広島県人である事もあるが、今回の発言は納得できない。歴史にIFは無いと言うけれども原爆投下が無くても戦争終結はあり得たのでは?と俺は考えている。
今回は日本がどのように戦争終結に向かった。再検証して原爆投下は戦争終結に必要か否かを考えたい。
日本が終戦へと水面下で動いたのは東条英機内閣が倒れた時(昭和19年7月18日)からで、東条政権打倒に暗躍していた岡田啓介海軍大将や近衛文麿などの人物が新たな段階としていかに終戦へと持ち込むか具体的に考え始めた。
近衛文麿は東条内閣の後継は短命内閣にし、次の内閣で戦争終結にするシナリオを描いていた。
だが、内閣作りだけが終戦への構想では無かった。
「海軍の損害がどれ位か自分にも分からぬが、いろいろ総合して考えると、最後の決戦はもういっぺんやれるんじゃないかと思う(中略)それをやれば国民も諦める。今すぐ和平をやるのはどうか」
(昭和19年7月2日に岡田が近衛に語る)
「(米英)彼らの目的は日独の戦争力を剰す所なく撃破して、再び第一次欧州戦争の轍を踏まざらんとするにあり。故に余力あるを頼みて(和平の)条件の緩和を図らんとするは甘き考えなり」
(「近衛日記」より)
「中間的内閣(この場合は小磯内閣)が対内政策上、即時停戦不可能と認むる時は連合艦隊を出動せしめて、最後の決戦をおこなわむべし」
(「近衛日記」7月2日)
終戦工作の中心人物である2人は残る戦力を無くしてから終戦への動きを本格化させる考えであった。到底「決戦」が出来ると考えられないまでに完膚無きまでに敗れてからで無ければ軍も国民も納得しての戦争終結は無いと考えていた。
近衛のシナリオである日本の戦力を壊滅(いや、自滅か・・・)を行うのが東条内閣に次いで誕生した小磯国昭陸軍大将の内閣である。
この内閣の期間中に米軍はフィリピンにレイテ島に侵攻。日本海軍連合艦隊は戦艦「武蔵」など主力艦艇の多くを失い米海軍と正面から戦える戦力を失った。航空隊の戦果は乏しく、特攻という最終手段にまで実行した。
近衛の意に沿う形で軍(特に海軍)は戦力を失っていた。
そして次は小磯内閣を潰して戦争の幕引きを行う内閣を作り、どのタイミングで終戦とするかであった。