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架空戦記小説と軍事の記事を中心にしたブログです
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今月2月9日は俺の誕生日だ。
なので2月にあった歴史の出来事(主に戦史)を取り上げてみたい。
その第1弾として太平洋戦争の戦局を大きく変えたガダルカナル島攻防戦の最期である日本軍撤退について。

1941年(昭和16年)12月から始まった太平洋戦争は日本軍優勢に進んで東南アジア・西太平洋を席巻した。
日本海軍はアメリカとオーストラリアの連絡線を遮断するとしてフィジー諸島・サモア諸島を攻略する(FS作戦)の準備的なものとしてソロモン諸島のガダルカナル島を占領し、飛行場を建設した。
この飛行場の滑走路が完成した時に戦局はミッドウェー海戦で日本軍が敗北。米軍は次の反撃として1942年8月。ガダルカナル島を攻略するウオッチタワー作戦を実行。海兵師団が上陸して多くが飛行場建設の部隊であるガダルカナルの日本軍は飛行場を捨てて内陸へ後退した。
米軍は飛行場を中心に陣地を構築。日本軍は一木支隊に川口支隊と部隊を送り込むが米軍に撃退される。
10月。この状況に日本軍は総力を挙げての反撃を決意。海軍は戦艦「金剛」・「榛名」で飛行場を砲撃。陸軍は第2師団を送り込む。米軍は「エンタープライズ」・「ホーネット」を基幹とした空母機動部隊をソロモン諸島へ進出させた。そして日米の機動部隊が激突する南太平洋海戦が展開される。日本軍は米軍の空母を1隻撃沈、もう1隻を撃破して勝利したが日本機動部隊の航空隊が壊滅的な損害を受けていた。陸軍も1個師団を投入した総攻撃が失敗。日本軍のガダルカナル奪回作戦はここに頓挫した。
それからも第38師団や重砲部隊がガダルカナルに派遣されるものの、ガダルカナル島の制空権も制海権も米軍が握っていた為に補給が続かず日本軍将兵は飢餓に見舞われた。
日本海軍は決死の駆逐艦や潜水艦でのネズミ輸送を行うものの、運べる物資が少なく焼け石に水であった。
2万名以上の将兵が居たが多くが飢えて体力を失い、病と栄養失調で戦う事が不可能となっていた。
この行き詰まりにガダルカナルでの勝利が絶望的になっていたが誰もはっきりと「失敗です」と言ってガダルカナルでの作戦を中止させる言葉が出ずにいた。
連合艦隊司令長官山本五十六は「よし、俺が悪者になろう」と言ってガダルカナル島からの撤退を意見具申しようとする発言をした。
だが、一番大きな役割をしたのは昭和天皇である。戦局を憂いた天皇の意向で翌年1月4日の御前会議を12月31日に行なった。ここで海軍軍令部総長永野修身は天皇に奏上した。
「ソロモン方面ニ於キマシテハガ島奪回作戦ヲ中止シ概(おおむ)ネ一月下旬乃至(ないし)二月上句ニ亘(わた)ル期間ニ於キマシテ陸海軍協同アラユル手段ヲ尽シマシテ在ガ島部隊ヲ撤収致シマス」
ガダルカナル島撤退を天皇に意見具申したのだ。天皇は「この方針に最善を尽くすように」と答えて決裁した。
ここにガダルカナル島撤退が決まる。
1943年(昭和18年)1月。ガダルカナル島撤退の作戦ケ号作戦が準備される。連合艦隊司令部はラバウルの南東方面艦隊・第八艦隊と作戦を協議していた。陸軍は撤退作戦を伝える役目として第八方面軍参謀の井本中佐と佐藤少佐が撤退援護の1個大隊に通信部隊を引き連れて1月14日にガダルカナル入りした。
ガダルカナルの日本軍は飢餓により半数以上の兵を失っていた。他の友軍とも隔絶したガダルカナルの日本軍(第十七軍)の司令部や師団長は玉砕をする覚悟だった。井本・佐藤にも撤退は不可能であるから最後の斬り込み突撃を敢行して皇軍の栄誉を保つべきだと第十七軍参謀は頑なに撤退反対を説く。
けれども第十七軍司令官百武晴義中将は大本営の決定に従うとして「大命を万難を排して遂行するに決裁す」と撤退を決めた。

撤退はガダルカナル島西部に部隊を移動させて行う事とした。部隊の位置から第38師団から行われた。
2月1日。第1次撤退
駆逐艦20隻で第38師団将兵を中心に5400人以上が撤収。
2月4日。第2次撤退
駆逐艦20隻で第2師団を中心に5000人以上が撤収。この時第十七軍司令部も撤退。
2月7日。第3次撤退
駆逐艦18隻で残存部隊2600人以上が撤収。
この3回に分けての撤収で日本軍はガダルカナル島を後にした。海軍は駆逐艦「巻雲」が撃沈。駆逐艦「舞風」が空襲で損害を受けたが1万人以上を飢餓地獄と化したガ島より救い出した。
だが、撤退命令が届かなかった歩兵第四連隊内藤大隊は全滅してしまう。また、個人単位での残留者も居て最後の1人が昭和27年にようやく降伏する。

撤退後。百武はガダルカナル島での敗北の責任を取って自決するつもりでいたが、第八方面軍司令官今村均大将があなたが「兵を飢えさせたのではない。2万の戦友の霊を見守るためにも生きてください」と説得して自決を思いとどまらせた。
ガダルカナル島を戦った部隊のその後。第二師団はビルマ戦線へと向かい、ここではガダルカナル島で経験した事が役に立ち激戦を戦い抜いた。
第三八師団はラバウルで他の部隊と共に自給体制を作り上げて終戦を迎える。

ガダルカナル島では3万人以上の日本軍が上陸した。戦死は5000人を出したが、最も多かったのは飢餓による戦病死15000人であった。
このガダルカナル島の戦い以降。補給が途絶した戦場で多くの日本軍将兵が戦うよりも飢えに苦しむ事になるのである・・・。
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戦艦長門1
(↑砲塔を旋回させる長門)

 

1944年(昭和19年)10月20日。アメリカ軍はフィリピンのレイテ島に上陸。日本海軍連合艦隊は残るほとんどの主力艦艇を投入した捷一号作戦を発動。レイテ湾の米輸送船団を撃滅する為に出撃した。

だが、レイテ突入を目指す栗田建男中将の艦隊は10月23日に潜水艦によって重巡洋艦「愛宕」と「摩耶」が撃沈。24日にはウィリアム・ハルゼー中将の第3艦隊の空母艦載機によって戦艦「武蔵」が撃沈された。

レイテ湾突入を目前に磨り減る栗田艦隊。「武蔵」が沈んだ後に一旦はシブヤン海を西に反転して空襲をやり過ごす。これを米第3艦隊の偵察機が目撃し、「日本艦隊は逃げた」とハルゼーに思わせた。

だが、栗田艦隊はまた反転。レイテ湾への再進撃を開始した。

ハルゼーを騙した事を知らず戦々恐々とレイテ湾へ抜ける海路で一番狭い、サン・ベルナルディノ海峡を無事通過した。

そして10月25日の夜明け。栗田艦隊は敵艦隊と遭遇する。護衛空母からなるトーマス・スプレイグ少将指揮のタフィ3である。ここに大和以下の戦艦が初めて敵の艦艇に向けて砲戦を挑むサマール沖海戦が始まった。


ここで双方の戦力を比較しよう。


栗田艦隊

戦艦4隻・重巡洋艦6隻・軽巡洋艦2隻・駆逐艦11隻

タフィ3

護衛空母6隻・駆逐艦7隻


単純に比較するとタフィ3は水上戦闘が可能なのは駆逐艦7隻のみ。だが、相手は戦艦4隻を中心にした20隻以上の艦隊。勝ち目が無いように見える。だが実際はどうなっただろうか。


・6時40分前後 双方ともに発見

・6時59分    戦艦「大和」米空母と3万1000メートルの距離で砲撃開始

・7時00分    戦艦「金剛」・「榛名」砲撃開始

・7時01分    戦艦「長門」砲撃開始

・7時03分    栗田中将各戦隊に突撃命令

・7時09分    護衛空母群スコールと煙幕の中に遁走

・7時16分    スプレイグ少将。駆逐艦に突撃命令

・7時30分    重巡洋艦「鈴谷」が米駆逐艦の魚雷攻撃を受けて大破

・7時35分    戦艦「榛名」魚雷回避の転針

・7時57分    戦艦「大和」魚雷回避の転針

・8時00分    栗田中将。全軍突撃せよを命令

・8時10分    護衛空母「ガンビア・ベイ」に初の命中弾

・8時53分    重巡洋艦「筑摩」魚雷攻撃を受けて大破

・8時55分    駆逐艦「ホエール」撃沈

・9時07分    「ガンビア・ベイ」撃沈

・9時11分    栗田中将。追撃中止・北方集結を命令

・9時23分    栗田艦隊追撃中止

・10時05分   護衛空母「サミュエル・B・ロバーツ」撃沈

・10時10分   駆逐艦「ジョンストン」撃沈


戦果

護衛空母1隻撃沈 駆逐艦2隻 護衛駆逐艦1隻 撃沈

損害

重巡洋艦5隻大破


戦艦4隻で攻撃したものの第1の目標である空母を1隻しか撃沈できず、かえって5隻の重巡洋艦を大破させらた(後に5隻とも午後の空襲で撃沈される)

こう見ると栗田艦隊の戦果は芳しくない。では、何故このような事になったのか?

7時16分にタフィ3の駆逐艦が突撃を開始した。これらの駆逐艦は文字通り身体を張って護衛空母を守った。煙幕を展開し、護衛空母を隠し。魚雷を放ち戦艦「大和」と魚雷を併走させて戦場より離れさせて栗田中将以下の艦隊司令部が戦況を把握出来ないようにさせた。また、重巡洋艦数隻を大破させた。
まさに小人が熊に挑むような戦いとも言える。これは米駆逐艦乗員の高い闘志と魚雷の威力による所だろう。これに加えて護衛空母の艦載機も大きな役割を果たした。
タフィ3はレイテ島上陸作戦を支援する為に対地装備しか無く、アベンジャー攻撃機が搭載されていても雷撃は出来なかった。けれども通常爆弾を装備して栗田艦隊を爆撃した。爆弾が無くなっても攻撃するふりをして回避行動を強要し、進路を妨害した。
この海空による妨害で護衛空母をスコールの中に逃がす時間を稼げた。栗田艦隊はこの妨害で1隻の護衛空母しか撃沈できずに終わった。
これを見て栗田艦隊は米軍に翻弄された愚鈍な艦隊かと思うかもしれない。だが、「武蔵」の撃沈で艦載機の威力を前日に目の当たりにした栗田艦隊に爆弾を受けてでも追撃するべきだったと言うのは酷だ。
このサマール沖海戦では米駆逐艦の勇戦があったが、栗田艦隊の駆逐艦はどうだったか。戦艦と重巡洋艦が前進してタフィ3を攻撃する一方で軽巡洋艦と駆逐艦からなる水雷戦隊は後から追従して行く形になっていた。これは捷一号作戦の目的であるレイテ湾突入を控えて駆逐艦の燃料を使わせない為に突撃させず艦隊の後方に居た。また、損傷艦の護衛をも行い栗田中将は駆逐艦を使わず戦艦と重巡洋艦の砲撃で敵空母を撃沈しようと試みたのだ。
この駆逐艦を全面に出さない作戦が米駆逐艦が活躍できる舞台を作り上げたと言える。午前8時には栗田中将は全軍突撃せよを命じて水雷戦隊は戦場へと出た。軽巡洋艦「矢矧」以下第十七駆逐隊が敵との距離1万メートルで魚雷を発射した。(魚雷到達予定の時刻に米空母に水柱が立ったとされる)

栗田艦隊はレイテ湾突入を控えて戦力の逐次投入とも言える戦い方になってしまった。だが、これは航空支援が無い傷ついた1個艦隊の限界とも言える。目の前の敵を撃滅させたいが当初の目標を達成せねばならない。このジレンマに混乱する戦場で栗田中将と参謀達は悩まなければならなかった。

サマール沖海戦。それは戦闘を重ねて作戦目標を前にした栗田艦隊にとっては全力発揮が出来なかった余裕無き戦いであった。


日中戦争の勃発で鉄道部隊はまた戦場に出動した。この時には昭和9年に満州ハルピンで編成された鉄道第三連隊も加わり、3個の連隊に増強されていた。
鉄道部隊は得意の鉄道進撃を行い、対する中国軍も装甲列車で対抗したが1937年(昭和12年)の石家荘付近の戦いで日本軍は中国軍装甲列車を捕獲して鉄道での戦いは日本軍有利に進む。
日中戦争の戦線の拡大は日本軍が管理する路線も増える事を意味した。昭和12年から13年の間に鉄道第四・五・六連隊が編成されて路線の警備や修復に工事・輸送任務に従事した。
1941年(昭和16年)6月。ドイツがソ連に侵攻し、日本は同盟国ドイツの支援と仮想敵国ソ連を叩くべく「関東軍特殊演習」と称して満州に部隊を集結させた。ここで鉄道部隊は部隊や物資の輸送と共に日ソ開戦の準備をしていた。日本陸軍は第1の仮想敵国としてソ連を想定し、満州からシベリアへ進撃する作戦を立案していた。鉄道部隊もその時に合わせて車両をソ連の広軌路線でも通れる仕様にしていた。
だが、日ソ開戦は無く太平洋戦争が勃発。鉄道部隊は新たに東南アジアでの活動をする事となった。占領したフィリピン・マレー・スマトラ・ビルマで路線修復や輸送任務に就き、今度は新たな路線を建設する事になった泰緬鉄道である。
泰緬鉄道はタイとビルマを結ぶ路線である。隣国を結ぶ路線ではあるが、国境付近の山岳地帯がそれまでの路線建設を阻んでいた。その困難に日本軍は挑む事となった。
ビルマに展開する部隊の輸送は船舶による海路だけしかなかった。だが、主要な作戦はビルマとは逆方向の太平洋中部やニューギニア・ソロモン諸島にあったから日本の保有する船舶の数では逆方向の戦線に回す余裕が無かった。それを見越して東南アジアの陸軍作戦を統括する南方軍鉄道司令部は開戦前から泰緬鉄道建設の計画を検討し、昭和17年に大本営に建設の申請を一時却下されるが7月には許可が下りた。
昭和17年9月16日に総延長415kmの鉄道建設が始まった。この建設に昭和16年9月に編成された鉄道第九連隊がタイから。ビルマから鉄道第五連隊が建設を行ったが、主な労働力は3万人の捕虜の連合国軍兵士に10万人の現地人労働者であった。
建設には日本から工具や車両ぐらいで、枕木や橋の資材となる木材は現地で調達。レールはマレー・ビルマから持ち込んだ。足りない資材や困難な地形であっても戦況に間に合わせる必要から雨季でも急ピッチで作業は進んだ。かつて、建設しようと現地調査したイギリス人。そして建設前に調査した日本の技術者も泰緬鉄道の建設には5年かかるとしていた。だが、それを1年以上で完成させた。(昭和18年10月に開通)だが、短期間の工事は連合軍捕虜1万2000人・現地人労働者3万人が犠牲となっての完成であった。
南方軍は泰緬鉄道で1日3000トンの輸送が可能と見積もったが、連合国軍の爆撃を受けて当初予定の3%しか輸送出来なかったと言う。
終戦後。泰緬鉄道は鉄道第九連隊が一時運営し、現在ではタイ側をタイ国鉄が運営している。また、映画「戦場にかける橋」のモデルにもなっている。
昭和19年3月から昭和20年5月までに第七連隊から第二〇連隊まで12個鉄道連隊が編成された。だが、太平洋戦争は島々を巡る戦いが主である為に鉄道部隊の活躍は限られていて、中国大陸や東南アジアの路線の維持や運行を行っていた。
1945年(昭和20年)8月9日にソ連が参戦した。満州が戦場となると鉄道部隊は輸送路確保の為に列車を運行し、ソ連軍の利用をさせない為にトンネルや路線を破壊した。中にはソ連軍と交戦してほぼ全滅した部隊もあった。こうした中で日本は降伏。終戦直後は前述の鉄道第九連隊による泰緬鉄道運営や中国軍の指揮下で北部仏印(イントシナ北部)の鉄道復旧や輸送を鉄道第十連隊が行った。
一部の部隊が技術を買われて終戦後も活動しつつも日本陸軍の解体と共に鉄道部隊の歴史は幕を閉じた。

ここまで見ると日本陸軍鉄道部隊は輸送・工兵の支援部隊としての性格。装甲車両に火砲を有する戦闘部隊としての性格と、鉄道さえあれば多様な任務が可能な汎用な部隊とも言える。泰緬鉄道は資材の不足と無理な工事で犠牲を強いる事になったが、他の点においては輸送も工事も戦闘もこなす自己完結の出来た独特の兵科として能力の高さを示したものであった。

新たな参考資料
・歴史群像2001年6月号「太平洋戦争PHOTO GRLLERY Vol.18戦場に架ける橋泰緬鉄道」
・「マンゴーシャワーにうたれて・・・」
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/hibi00/index.html
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より「泰緬鉄道」の項

日本陸軍鉄道はシベリア出兵で新たな兵器を目の当たりにした。装甲列車である。
シベリアに対峙する赤軍・白軍・チェコ軍の装甲列車を見た日本陸軍は陸軍技術本部・造兵廠の技術者を現地に派遣して研究させた。
だが、シベリアに展開している部隊には装甲列車が必要だった。シベリアは冬季になると道路や河は雪が積もり、凍てつく為に鉄道だけが部隊唯一の移動できるルートであり、何よりも大事な補給線であった。
これを守る為に広軌牽引車が列車に先行して安全を確認する事になっていたが、危険地帯では列車自体も装甲を張り武装して攻撃から身を守るのも必要だった。
シベリアでは、鉄板・煉瓦・セメントを車両の側面に施して装甲とした。これに火砲を装備して日本陸軍初の装甲列車は生まれた。この装甲列車と広軌牽引車を合わせて日本陸軍は敵の攻撃を受けても対抗できる能力を持った。これにより、輸送と工兵の性格を持つ兵科から戦闘も出来る兵科へと向上したのであった。

1926年(大正15年)には装甲列車を使用して運用方法研究の演習を行い、その有効性を改めて確認した。1928年(昭和6年)の済南事件では演習の成果から南満州鉄道(以後、満鉄と略す)の協力を得て早急に装甲列車を配備する事が出来た。
1931年(昭和6年)からの満州事変では満鉄が自社の車両を改造して6編成の装甲列車を仕立てた。それらの装甲列車や通常の列車は事変拡大と共に満州各地へ部隊を送った。これら列車の運用は多くを陸軍鉄道部隊では無く、満鉄が行い、戦闘で壊れた路線の修復をも満鉄が行った。
(昭和6年末には臨時の関東軍鉄道中隊が編成された)
また、この年には装甲列車同士の戦闘が行われた。満鉄白旗堡付近の北寧線を進む中国軍装甲列車と路線警備の日本装甲列車と遭遇し、戦闘となった。この戦闘で中国軍装甲列車を大破させ、捕獲した。
翌年の昭和7年には鉄道第一連隊が満州に派遣され、ハルビンへの鉄道進撃を行った。

満州事変は日本の南満州鉄道。ソ連の中東(東支)鉄道(帝政ロシアが建設した東清鉄道)に中国が建設した鉄道と、満州は鉄道の利便性が高い地域であった。また、路線付近は満鉄の付属地であった。これを利用して独断で動く関東軍は「路線警備」の名目で部隊を動かす事が出来た。(事変前。日本の租借地である遼東半島を越えて長春まで満鉄は伸びていた。つまり、敵地の中に日本の路線があるために鉄道での進撃が出来た)
関東軍は事変に朝鮮半島を管轄する朝鮮軍を出動させるべく、朝鮮半島と満州を繋ぐ安奉線を確保する事が重要にもなっていた。いわば満州事変は鉄道主体の戦場でもあったと言える。しかし、陸軍中央には極秘で関東軍が独断でした作戦であるから鉄道部隊は主役にはなれず、満鉄が主役となってしまった。

1932年(昭和7年)8月に「臨時装甲列車」、または「軽装甲列車」の開発が決まり。翌年8月には完成した。また、昭和8年から「重装甲列車」の開発も行われ「九四式装甲列車」と呼ばれた。
この2つの装甲列車の違いは
「軽装甲列車」:12輌編成 各種機関銃16丁・13ミリ対空機関砲2門・150ミリ榴弾砲2門・高射砲2門
「九四式装甲列車」:8両編成 各種機関銃10丁・105ミリ榴弾砲2門・高射砲2門
「重装甲列車」として開発された九四式が軽装甲列車より武装も車両も少ない印象を受ける。しかし、九四式は
低コストでの重装甲を備えた列車(軽装甲列車の教訓で重量過多での走行の不備から)として開発された。また、長距離射撃を行わない事から軽装甲列車より威力の劣る105ミリ砲になった。だが、火砲全てを列車の前半分に集中配備した事で軽装甲列車に劣らない強力な火力を有した。それに速度も軽装甲列車の60km/hから65km/hに、電源車を導入した事から通信能力が向上するなど九四式が総合的には軽装甲列車よりも優れていた。
また重装甲を課題にした九四式の装甲は機関車や警戒車で6ミリ・指揮車や砲車・電源車には側面10ミリ・その他6ミリとなっている。(軽装甲列車は機関車で車体外周に10ミリ、その他6ミリ)
結局軽装甲列車は重量の大きさから状態の悪い路線を通りにくく、やがて満州の路線警戒や、対ソ侵攻作戦に必要な装甲列車としても残された。

参考資料
電脳戦闘団
http://blinda.ld.infoseek.co.jp/vkg_000.html
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)の「臨時装甲列車」・「九四式装甲列車」の項より
歴史群像2006年10月号「満州電撃戦 関東軍北方快進撃の秘策」
その他、(1)の書籍

日露戦争で鉄道の重要性を再認識した日本陸軍。
1918年(大正7年)には鉄道隊を3個中隊から12個中隊からなる鉄道連隊に拡充され、2個連隊(鉄道第一・第二連隊)が創設された。この2個連隊は電信隊・気球隊と共に交通兵旅団の所属となった。
連隊は千葉の津田沼に駐屯した。ここで演習用の路線が敷設された。(現在の新京成電鉄京成線として路線は再利用されている)この路線での訓練と研究で軍用軽便鉄道1路線で1日に600トンの輸送が可能となり、1路線で数個師団の補給を支えられる能力を日本陸軍は持つ事となった。

第一次世界大戦で日本陸軍はドイツの租借地である中国の山東半島に侵攻。ここで臨時鉄道第三大隊(後に臨時鉄道連隊)が編成され上陸地点から前線までの鉄道敷設。前線部隊への補給や輸送。ドイツが施設した山東鉄道の修復工事を行った。
大正7年から開始されたシベリア出兵では第一・第二鉄道隊(臨時鉄道連隊の第一大隊と第二大隊になる)がシベリアで行動した。
第一鉄道隊は第一二師団所属の第一二旅団を主力として鉄道支隊を編成。黒竜江鉄道において鉄道進撃を行った。鉄道進撃は鉄道部隊が歩兵・砲兵を列車に乗せて進撃。鉄道を用いた快速部隊として進撃するのが鉄道進撃である。敵と遭遇すれば歩兵は下車して敵を排除。路線が破壊されても鉄道部隊の兵が修復工事を行う。
シベリア出兵でこの鉄道進撃の戦術が初めて実戦に使われた戦場となった。
1923年(大正12年)の関東大震災では2個の鉄道連隊は関東戒厳司令官の指揮下で鉄道復旧の工事を行った。

日本鉄道部隊は新たな戦力として装甲車両を導入した。シベリア出兵では列車に先行して装甲を施したトロッコが進んだ。これで敵が居ないか偵察するのだ。しかし、それでは線路上の活動に限られる為に不十分な偵察しか出来ないからだ。そこで、線路上から出て偵察出来る車両が必要となった。
シベリア出兵の時には装甲軌道車と呼ばれる装甲車が使われていたが、本格的なものとして九〇式広軌牽引車が最初に開発された。
この車両はスミダ6輪トラックを改造したもので、線路上では鉄輪。路上はゴムタイヤで走行する。
その九〇式の改良として九一式広軌牽引車が開発された。だが、九〇式や九一式も固定の武装は無く、小銃や機関銃を車内に持ち込んで武装させた。
また九一式は速度が路上で40キロ、線路上で60キロ。軽貨車実車4両を牽引して40キロで走れた。
牽引車はその後、九二式・九七式鉄道牽引車・九八式鉄道牽引車(重)(軽)・一〇〇式鉄道牽引車とトラックをベースにしたこれらの車両が開発される。前線へ貨車を引き輸送を行い、装甲車の性格もあるためにゲリラが潜む危険な地帯の路線を走行出来る車両として使われた。
それら牽引車の発展したものとして九五式装甲軌道車が昭和10年に開発された。九五式は外見が戦車と似た姿となっている。線路以外での走行はキャタピラであり、路線外への移動は九一式で5分だったが九五式では車内の操作で1分で出来た。使用軌間は1000ミリから1624ミリまで変えられた。
しかし、武装は固定の機銃や砲は装備されなかった。これは工兵機材を開発する陸軍技術研究本部第2部の所管であり、車両や銃器火砲弾薬を開発する第1部から協力を得られなかった。つまり、管理部署の違いと連携の無さが軌道車に大きく影響を与えてしまったのだ。九五式で鉄道兵は小銃や機関銃を持ち込み5カ所の銃眼から射撃する事となった。
武装こそ不備ではあるが、その戦車に似た姿は大いに役に立った。日中戦争で中国軍の装甲列車を発見した九五式は線路外に出て敵装甲列車の側面に回り込んだ。九五式を見た中国軍はそれを戦車だと勘違いして列車を捨てて逃げたと言う逸話がある。
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