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架空戦記小説と軍事の記事を中心にしたブログです
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「皆さまお久しぶりです。小笠原家家臣である福沢祐巳です」







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「自己紹介はいいわ祐巳。話を続けましょう。なんだって半年も進んでない
 のだから」







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「そうですねお姉様。あ、いやお館様。
 島津と結んだ我が小笠原家は九州を制覇して新たな進路を決めようとしていました」






1566年(永禄9年)1月に筑前平定を以て九州を制覇した小笠原家。祥子は次の目標を思案していた。

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「決めたわ。周防に攻めるわ」









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「四国はどうしましか?同盟を結んで安全を図りますか?」






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「四国は島津にあげるわ。それと祐巳。周防攻めについてだけど
 拠点となる城を下関に城を築いてちょうだい」







3月に下関で祐巳を奉行に支城の建設が始まる。だが・・・

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「祐巳。ごめんさない、高嶺城を落としたからもう城はいらないわ」









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「えええ~!」






11月に開門海峡を渡り周防へ上陸した小笠原軍。祥子の憂いは杞憂に終わり浦上家の高嶺城は一度の総攻めで落とした。これにより中国地方での足掛かりを得た小笠原家はもう下関に城を作る必要は無くなったのである。
周防に進んだ小笠原家は中国地方の有力大名である毛利家と戦う事となった。
1567年(永禄10年)2月の出雲の福光城攻めを皮切りに毛利との戦いを開始した小笠原軍。安芸の毛利元就の居城である郡山城も落とし、毛利が尼子家より奪取した難攻の月山富田城をもたちまち攻め落とした。
この月山富田城攻めでは小笠原軍は初めて1万もの軍勢を揃える陣容になっていた。
だが、その月山富田城攻め(永禄11年4月)より前に祥子にとって屈辱の出来事が起きていた。

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「まったくあの、公家達たらなんなの!」








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「京から帰るなり不機嫌ですね」







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「官位を貰うには早過ぎる。身の程を知れだそうよ。まったく幾ら金銭を与えて
やったと思っているのかしら!」





永禄10年11月。冬の京へ上洛した祥子は官位を賜ろうとしたが、朝廷より無下に断られてしまったのだ。
また、6月には家臣の丸目長恵が吉弘鑑理野に剣術を教えて野に下り祥子にとっては災難が続く下半期となった。

だが、戦略的には好調である祥子は永禄11年7月に毛利家最後の拠点である因幡の鳥取城攻略で毛利家を滅ぼした。
この滅亡は悲劇を生んだ。毛利元就は祥子の家臣となったが息子の毛利隆元と吉川元春・小早川隆景は小笠原家の臣下になる事を拒み因幡の此隅城で抵抗を続けた。
これに毛利元就が率いる軍勢で攻めて落城させた。総攻め前や落城後には元就の説得が行われたが3人の意志を変える事は出来なかった。
吉川元春は島津家に。毛利隆元は本願寺へと奔ったと言う。
これを後に「三本の矢が折れた時」と言われる毛利家の悲劇である。

この毛利の滅亡で中国地方の半分を手に入れた祥子。だが、新たな強敵が祥子の行く手を阻む。
近江を除く近畿一帯を制し朝廷に絶大な影響力を持つ本願寺である。
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