架空戦記小説と軍事の記事を中心にしたブログです
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航空自衛隊の前幕僚長田母神俊雄が書いた論文「日本は侵略国家であったのか」が大きな問題となっている。
空幕長と言う要職で問題を巻き起こす事をするのは良いものでは無いが論文が与えた意味は大きなものである。
マスコミや国会の参考人質疑を見ると問題は2つに集約される。
・歴史認識
・文民統制
前者は論文について。後者は政府認識と違う考えを持っているのではないかという疑心である。
マスコミと国会では主に文民統制の危機だと問題提起している。
政府認識の元である村山談話。1995年に終戦50周年を記して当時の総理大臣であった村山富市が語った声明である。
「戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」
(村山談話より一部抜粋)
日本は侵略を行いアジア諸国に惨劇を振りまいた。よって謝罪する。それが村山談話の意味である。
田母神氏の論文ではそれに対すると思われる内容では。
「さて大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2 百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ」
(日本は侵略国家であったのかより一部抜粋)
太平洋戦争で日本軍が東南アジアのイギリスやオランダの植民地に進撃してその地域は戦後に独立を果たした。当時の日本が考えていた独立の姿では無かったが日露戦争の勝利から見えた有色人種が白色人種に勝つ可能性を日本はアジアやアフリカに示した。
アジアで独立運動の活動家達は日本に大いに期待していたが、日本の政策は福沢諭吉の「脱亜入欧」のままであり欧米との覇権争いがメインであった。太平洋戦争で日本軍が占領した地域では資源獲得を優先とした軍政であり今村均中将のように現地民への配慮をしたケースが希であった。
また、インド独立のインド国民政府やインド国民軍を創設したが太平洋戦争での日本は戦略が方向の定まらないものであった為にインド独立への行動も1944年のインパール作戦の一環にインド国民軍を同行させるに留まった。
日本が侵略したのも事実であり、アジアの独立に寄与したのも事実である。
とはいえ、あの戦争で敗北した日本の正史は侵略という面が主である。
それを自衛隊をも共有せねばならないとするのがマスコミと国会の論理である。
太平洋戦争や日中戦争に否定では無く肯定的な意見を自衛官が持つと右傾化して自衛隊がクーデターを起こすのでは無いのか?ともテレビで評論家が言った事もあった。
本来は歴史検証の問題が政治的な問題になったのである。
とはいえ、他国に侵略したのは日本だけでは無い。中国も1951年にチベットを侵略し今も領土の一部としている。ヨーロッパ諸国はアフリカや中東・アジアに植民地を次々と作り上げた。アメリカもハワイ王国を滅ぼしてハワイ州として併合した。
敗者とはいえ歴史に背を背けているのは日本だけだ。
負の感情を持って果たして命がけの任務やストレスの多い環境に耐えられるかと言いたい。
田母神氏は参考人質疑でこのように語る。
「日本をいい国だと思わなければ頑張る気になれない」
多様化する任務は現場の幹部や隊員に重圧を強いている。そんな過酷な仕事に誇りを持てる事が出来なければいざという時に全力を出せるだろうか?いや、平時での規律も危ういかもしれない。
21世紀になり、8年を過ぎた今日。明治・大正・昭和の歴史と向き合わなければならない時なのである。
歴史の問題は日本人でありながら国旗と国歌、または祖父母の世代を否定する非情なものになってしまった。それは教育や国家の姿勢で半世紀以上に渡り続けられて来たからだ。
敗北したとはいえ戦後をまだ引きずる日本。
まだ戦後は終わっていないのだ。
空幕長と言う要職で問題を巻き起こす事をするのは良いものでは無いが論文が与えた意味は大きなものである。
マスコミや国会の参考人質疑を見ると問題は2つに集約される。
・歴史認識
・文民統制
前者は論文について。後者は政府認識と違う考えを持っているのではないかという疑心である。
マスコミと国会では主に文民統制の危機だと問題提起している。
政府認識の元である村山談話。1995年に終戦50周年を記して当時の総理大臣であった村山富市が語った声明である。
「戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」
(村山談話より一部抜粋)
日本は侵略を行いアジア諸国に惨劇を振りまいた。よって謝罪する。それが村山談話の意味である。
田母神氏の論文ではそれに対すると思われる内容では。
「さて大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2 百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ」
(日本は侵略国家であったのかより一部抜粋)
太平洋戦争で日本軍が東南アジアのイギリスやオランダの植民地に進撃してその地域は戦後に独立を果たした。当時の日本が考えていた独立の姿では無かったが日露戦争の勝利から見えた有色人種が白色人種に勝つ可能性を日本はアジアやアフリカに示した。
アジアで独立運動の活動家達は日本に大いに期待していたが、日本の政策は福沢諭吉の「脱亜入欧」のままであり欧米との覇権争いがメインであった。太平洋戦争で日本軍が占領した地域では資源獲得を優先とした軍政であり今村均中将のように現地民への配慮をしたケースが希であった。
また、インド独立のインド国民政府やインド国民軍を創設したが太平洋戦争での日本は戦略が方向の定まらないものであった為にインド独立への行動も1944年のインパール作戦の一環にインド国民軍を同行させるに留まった。
日本が侵略したのも事実であり、アジアの独立に寄与したのも事実である。
とはいえ、あの戦争で敗北した日本の正史は侵略という面が主である。
それを自衛隊をも共有せねばならないとするのがマスコミと国会の論理である。
太平洋戦争や日中戦争に否定では無く肯定的な意見を自衛官が持つと右傾化して自衛隊がクーデターを起こすのでは無いのか?ともテレビで評論家が言った事もあった。
本来は歴史検証の問題が政治的な問題になったのである。
とはいえ、他国に侵略したのは日本だけでは無い。中国も1951年にチベットを侵略し今も領土の一部としている。ヨーロッパ諸国はアフリカや中東・アジアに植民地を次々と作り上げた。アメリカもハワイ王国を滅ぼしてハワイ州として併合した。
敗者とはいえ歴史に背を背けているのは日本だけだ。
負の感情を持って果たして命がけの任務やストレスの多い環境に耐えられるかと言いたい。
田母神氏は参考人質疑でこのように語る。
「日本をいい国だと思わなければ頑張る気になれない」
多様化する任務は現場の幹部や隊員に重圧を強いている。そんな過酷な仕事に誇りを持てる事が出来なければいざという時に全力を出せるだろうか?いや、平時での規律も危ういかもしれない。
21世紀になり、8年を過ぎた今日。明治・大正・昭和の歴史と向き合わなければならない時なのである。
歴史の問題は日本人でありながら国旗と国歌、または祖父母の世代を否定する非情なものになってしまった。それは教育や国家の姿勢で半世紀以上に渡り続けられて来たからだ。
敗北したとはいえ戦後をまだ引きずる日本。
まだ戦後は終わっていないのだ。
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元亀2年(1571年)1月。島津家は阿波国を平定した事で四国全体を治める事となった。
九州から近江を除く近畿地方までは小笠原家と島津家が領土を二分する地となった。
島津家は九州の南半分と四国。小笠原家は九州の北半分に中国地方・近畿地方に北陸の一部にまで版図を広げていた。
その版図の隣には成長著しい織田家があった。徳川家と小笠原家との同盟により側面の脅威を受けない事から織田信長は美濃の斉藤家に近江で争い続けていた浅井家と朝倉家を滅ぼし、上杉家が勢力を伸ばす越前と加賀を奪取した。
まだ東日本では武田家・上杉家・北条家・伊達家という有力大名が割拠していたが織田家の伊勢湾から日本海に至る勢力圏は小笠原家にとってはそれまでの戦いの骨休みをするには良い壁となった。
「さて、ここで我が小笠原家の陣容を見てみましょうか」
「支配している国は11カ国。武将は50人以上は居ます。
兵力は5万人以上になりました」
「肥後で大友や龍造寺と戦っていた時とは大違いね。
日本では最大の力ではないかしら?」
「その通りです。威信度も120。
他に並ぶのは島津家と織田家ですね」
「その小笠原家を支えるのは家臣達。
祐巳に白薔薇衆と黄薔薇衆は本当によくやってくれたわ」
「武将達の状況では、まず白薔薇衆の筆頭である佐藤聖様が永禄11年(1568年)5月に侍大将から部将になったのが最初で、それから8月に私と黄薔薇衆筆頭の支倉令様が、永禄12年(1569年)には瞳子が、元亀元年には志摩子が部将に昇進しました」
「我が一門もこれで強化できた訳だけど、臣下になった家臣は面白い者が集まったものだわ。
永禄12年には南光坊天海が家臣になった。京での朝廷の交渉役にして今では私は正六位下上野介の官位を貰えたわ」
石山御坊を落とした時点で小笠原家にはかなりの経済的余裕が生じていた。
周防や出雲の金山に九州の博多、摂津の堺、京の都という商業都市。この2つの要素が小笠原家の財源を生み出した。
この財産は京の朝廷に送られ小笠原家との関係向上に使われた。そしてそれらの交渉役が天海であった。他にも前田玄似(史実では豊臣家五奉行の一人)岡本禅哲(史実では佐竹家家臣)京極高吉(史実では足利家家臣)を室町御所に置いて朝廷への献上。または京での家宝買いに使った。
「武将を見てみると、当然ですけどかつて大友・龍造寺・毛利・尼子の武将が多いですね。
と言うより毛利元就や大友義鎮・尼子義久・相良義陽と言ったかつてのそれぞれの当主達についこの前までの宿敵だった本願寺証恵も居るし、足利義輝に足利義昭の将軍家兄弟までも・・・あれ?」
「どうしたの祐巳?」
「確か足利義輝は永禄8年にはもう亡くなっている筈ですよね。史実だと」
「この世界じゃ義輝を殺した三好氏は本願寺に滅ぼされたのよ。だから永禄の変は起こらなかった。それに74の戦闘能力と90の采配能力を持つ武将だから死んで欲しくはないわ」
「そういえば、永禄の変の黒幕と言われる松永久秀が家臣で居たような・・・」
※義輝を襲撃して殺害した永禄の変は三好家一族の重臣である三好三人衆と松永久秀によって行われた。その三好三人衆を牛耳っていたのが久秀であった。
「そういえばそうね。だけど戦国では裏切りも常だわ。裏切られたのなら私はそれまでの人物だったに過ぎない。
それに久秀以外にも、明智光秀・荒木村重とか史実で裏切りをした武将を小笠原家は抱えているのよ」
※明智光秀は言わずと知れた信長を裏切った本能寺の変の実行者。
※荒木村重は摂津の池田家から織田家に寝返った武将だったが天正6年に叛旗を翻す。信長と戦い負けるが、信長亡き後は茶人となる。
「ちょっと心配になりますね。謀反とか起きないか・・・」
「だからこそ頼りにしているわ祐巳」
少し心配なメンバーではある小笠原家だが、他にも柳生新陰流伝承者の柳生宗厳に「我に七難八苦を与えたえ」の言葉で有名な尼子家家臣の山中鹿之助に戦国時代における伊賀忍術の祖と言われる百地三太夫(百地丹波ではないかとも言われる)が居たりとバラエティーに富んだ顔ぶれとなった。
「たっ!大変です祥子様!
安芸の吉田郡郡山城が佐世清宗という武将に乗っ取られました!」
「天海をすぐに呼びなさい!朝廷に佐世を朝敵にして貰うわ」
元亀2年4月。空にしていた(武将が誰も居ない)安芸の吉田郡郡山城が佐世清宗の乗っ取られた。天海が祥子の名を受けて朝廷に佐世清宗を朝敵にするように働きかけこれは承諾された。
朝敵にされた事が相当にこたえたのか7月に佐世清宗は亡くなり羽床資載という武将が後を継いだ。
「大変です!今度は周防の高嶺城が山名豊国という武将に乗っ取られました!」
「まったく次から次に・・・背後の備えを怠っていたわ」
6月には同じく空城となっていた周防の高嶺城が乗っ取られた。(いや~武将は全部近畿に集めてしまったからねえ)
周防の金山を失う事にもなる高嶺城の失陥はまさに看過できない事態だ。家老の相良義陽率いる軍勢が郡山城と高嶺城の奪還に向かった。
しかし、郡山城は島津家の軍勢が攻めて奪った。
10月には高嶺城を奪還。山名豊国は斬首にした。
こうして小笠原領簒奪事件は安芸を島津家に与えるという苦い結果にはなったが、金山を失わないという経済的な面は守る事が出来た。
時は遡り
元亀2年6月の室町御所。
「祐巳。出陣の準備を皆に伝えなさい」
「安芸と周防への出陣ですね」
「それはもう、相良に命じたから良いのよ。
今度は近江と越前へ攻め入る」
「まさか、祥子様。織田家を・・・」
「織田との同盟はあくまで本願寺戦に集中する為。今はもう
同盟を続ける理由は無いわ」
こうして小笠原家は織田家との同盟を破棄した。
同盟を破った事に内外では動揺が広がったが天下統一に駆け出す小笠原家を止める事は出来ない。
しかし、史実では戦国時代の覇者とも言える織田信長に祥子は果たして勝てるのか?
九州から近江を除く近畿地方までは小笠原家と島津家が領土を二分する地となった。
島津家は九州の南半分と四国。小笠原家は九州の北半分に中国地方・近畿地方に北陸の一部にまで版図を広げていた。
その版図の隣には成長著しい織田家があった。徳川家と小笠原家との同盟により側面の脅威を受けない事から織田信長は美濃の斉藤家に近江で争い続けていた浅井家と朝倉家を滅ぼし、上杉家が勢力を伸ばす越前と加賀を奪取した。
まだ東日本では武田家・上杉家・北条家・伊達家という有力大名が割拠していたが織田家の伊勢湾から日本海に至る勢力圏は小笠原家にとってはそれまでの戦いの骨休みをするには良い壁となった。
「さて、ここで我が小笠原家の陣容を見てみましょうか」
「支配している国は11カ国。武将は50人以上は居ます。
兵力は5万人以上になりました」
「肥後で大友や龍造寺と戦っていた時とは大違いね。
日本では最大の力ではないかしら?」
「その通りです。威信度も120。
他に並ぶのは島津家と織田家ですね」
「その小笠原家を支えるのは家臣達。
祐巳に白薔薇衆と黄薔薇衆は本当によくやってくれたわ」
「武将達の状況では、まず白薔薇衆の筆頭である佐藤聖様が永禄11年(1568年)5月に侍大将から部将になったのが最初で、それから8月に私と黄薔薇衆筆頭の支倉令様が、永禄12年(1569年)には瞳子が、元亀元年には志摩子が部将に昇進しました」
「我が一門もこれで強化できた訳だけど、臣下になった家臣は面白い者が集まったものだわ。
永禄12年には南光坊天海が家臣になった。京での朝廷の交渉役にして今では私は正六位下上野介の官位を貰えたわ」
石山御坊を落とした時点で小笠原家にはかなりの経済的余裕が生じていた。
周防や出雲の金山に九州の博多、摂津の堺、京の都という商業都市。この2つの要素が小笠原家の財源を生み出した。
この財産は京の朝廷に送られ小笠原家との関係向上に使われた。そしてそれらの交渉役が天海であった。他にも前田玄似(史実では豊臣家五奉行の一人)岡本禅哲(史実では佐竹家家臣)京極高吉(史実では足利家家臣)を室町御所に置いて朝廷への献上。または京での家宝買いに使った。
「武将を見てみると、当然ですけどかつて大友・龍造寺・毛利・尼子の武将が多いですね。
と言うより毛利元就や大友義鎮・尼子義久・相良義陽と言ったかつてのそれぞれの当主達についこの前までの宿敵だった本願寺証恵も居るし、足利義輝に足利義昭の将軍家兄弟までも・・・あれ?」
「どうしたの祐巳?」
「確か足利義輝は永禄8年にはもう亡くなっている筈ですよね。史実だと」
「この世界じゃ義輝を殺した三好氏は本願寺に滅ぼされたのよ。だから永禄の変は起こらなかった。それに74の戦闘能力と90の采配能力を持つ武将だから死んで欲しくはないわ」
「そういえば、永禄の変の黒幕と言われる松永久秀が家臣で居たような・・・」
※義輝を襲撃して殺害した永禄の変は三好家一族の重臣である三好三人衆と松永久秀によって行われた。その三好三人衆を牛耳っていたのが久秀であった。
「そういえばそうね。だけど戦国では裏切りも常だわ。裏切られたのなら私はそれまでの人物だったに過ぎない。
それに久秀以外にも、明智光秀・荒木村重とか史実で裏切りをした武将を小笠原家は抱えているのよ」
※明智光秀は言わずと知れた信長を裏切った本能寺の変の実行者。
※荒木村重は摂津の池田家から織田家に寝返った武将だったが天正6年に叛旗を翻す。信長と戦い負けるが、信長亡き後は茶人となる。
「ちょっと心配になりますね。謀反とか起きないか・・・」
「だからこそ頼りにしているわ祐巳」
少し心配なメンバーではある小笠原家だが、他にも柳生新陰流伝承者の柳生宗厳に「我に七難八苦を与えたえ」の言葉で有名な尼子家家臣の山中鹿之助に戦国時代における伊賀忍術の祖と言われる百地三太夫(百地丹波ではないかとも言われる)が居たりとバラエティーに富んだ顔ぶれとなった。
「たっ!大変です祥子様!
安芸の吉田郡郡山城が佐世清宗という武将に乗っ取られました!」
「天海をすぐに呼びなさい!朝廷に佐世を朝敵にして貰うわ」
元亀2年4月。空にしていた(武将が誰も居ない)安芸の吉田郡郡山城が佐世清宗の乗っ取られた。天海が祥子の名を受けて朝廷に佐世清宗を朝敵にするように働きかけこれは承諾された。
朝敵にされた事が相当にこたえたのか7月に佐世清宗は亡くなり羽床資載という武将が後を継いだ。
「大変です!今度は周防の高嶺城が山名豊国という武将に乗っ取られました!」
「まったく次から次に・・・背後の備えを怠っていたわ」
6月には同じく空城となっていた周防の高嶺城が乗っ取られた。(いや~武将は全部近畿に集めてしまったからねえ)
周防の金山を失う事にもなる高嶺城の失陥はまさに看過できない事態だ。家老の相良義陽率いる軍勢が郡山城と高嶺城の奪還に向かった。
しかし、郡山城は島津家の軍勢が攻めて奪った。
10月には高嶺城を奪還。山名豊国は斬首にした。
こうして小笠原領簒奪事件は安芸を島津家に与えるという苦い結果にはなったが、金山を失わないという経済的な面は守る事が出来た。
時は遡り
元亀2年6月の室町御所。
「祐巳。出陣の準備を皆に伝えなさい」
「安芸と周防への出陣ですね」
「それはもう、相良に命じたから良いのよ。
今度は近江と越前へ攻め入る」
「まさか、祥子様。織田家を・・・」
「織田との同盟はあくまで本願寺戦に集中する為。今はもう
同盟を続ける理由は無いわ」
こうして小笠原家は織田家との同盟を破棄した。
同盟を破った事に内外では動揺が広がったが天下統一に駆け出す小笠原家を止める事は出来ない。
しかし、史実では戦国時代の覇者とも言える織田信長に祥子は果たして勝てるのか?
前回の続き
(↑観閲行進が終わり退場する第13音楽隊。演奏しながら移動している)
(↑会場より退場する国旗。73式小型トラックの後部では着剣した89式小銃を構えた隊員が向かい合わせで座っている)
(↑空挺降下の実演。千葉県習志野駐屯地から第1空挺団の隊員3名がUH1ヘリより降下した。3人目の隊員が頭上に来た所を撮影)
(↑着地した隊員。着地と同時に急いでパラシュートを畳む)
(↑第47普通科連隊による演奏。曲目はチャイコフスキーの1812年)
(↑会場にトラックを連ねて入る第13特科隊。1812年の演奏には大砲が使われる。その大砲を奏でる為に特科隊が来たのだ。榴弾砲を牽引した73式大型トラックが3両数珠繋ぎのように8の字を描くようにオーケストラの周りを回った)
(↑配置に就いた第13特科隊。105ミリ榴弾砲M101を3門使用する。下の画像では赤旗を持った隊員が居る。各砲に一人づつ配置された彼らは楽譜を見ながら(空砲を)撃つタイミングを旗で特科隊員に伝えた。最後の一斉射は旗を持つ隊員が中央に集まって一斉に赤旗を上げた)
(↑訓練展示の準備をする隊員達。鉄条網を張り、ススキの壁を置いて敵軍役の陣地を作り上げる)
(↑敵軍役の隊員達。前線近くの隊員3人は伏せて射撃していた(もちろん空砲)上の画像の無線機を背負った隊員が前線指揮官役のようで進行によって一人づつ隊員を後退させる指示をしていた)
訓練展示ではまず、偵察としてOH1観測ヘリが敵軍上空に侵入。不意の74式戦車からの7.62ミリ機関銃による対空射撃には驚いた。
(↑地上からの偵察として偵察隊の軽装甲機動車と87式偵察警戒車にバイクが侵入する。バイクはジャンプ台から跳ねる演技を見せた)
(↑30ミリ機関砲を撃ちながら敵陣近くより離脱する偵察警戒車。その近くではUH1ヘリよりリペリング降下したレンジャー隊員が敵地へ侵入しようと前進している。これは偵察隊が敵を引き付けている間にレンジャーを侵入させる場面という事なんかもしれない)
このレンジャー隊員は第13旅団の新装備を持っていた。M24対人狙撃銃である。
対テロ強化の一環として導入された自衛隊初の狙撃銃。これがようやく第13旅団に配備されていたのだ。これにより旅団は非対称戦(対テロ・ゲリラ)への備えをある程度揃えつつあると見える(他は個人装備だと赤外線暗視装置があれば)
さて、ここで持って来た姉より借りたデジカメの電池が無くなってしまったのである。
幸いに父親から借りたデジカメが予備にあったが、撮影した画像のサイズが大き過ぎるのでここでは公開出来ない。続きは悩み相談桜チャンネルの軍@さくらで公開します。
http://hp.jpdo.com/cgi041/181/joyful.cgi
(↑観閲行進が終わり退場する第13音楽隊。演奏しながら移動している)
(↑会場より退場する国旗。73式小型トラックの後部では着剣した89式小銃を構えた隊員が向かい合わせで座っている)
(↑空挺降下の実演。千葉県習志野駐屯地から第1空挺団の隊員3名がUH1ヘリより降下した。3人目の隊員が頭上に来た所を撮影)
(↑着地した隊員。着地と同時に急いでパラシュートを畳む)
(↑第47普通科連隊による演奏。曲目はチャイコフスキーの1812年)
(↑会場にトラックを連ねて入る第13特科隊。1812年の演奏には大砲が使われる。その大砲を奏でる為に特科隊が来たのだ。榴弾砲を牽引した73式大型トラックが3両数珠繋ぎのように8の字を描くようにオーケストラの周りを回った)
(↑配置に就いた第13特科隊。105ミリ榴弾砲M101を3門使用する。下の画像では赤旗を持った隊員が居る。各砲に一人づつ配置された彼らは楽譜を見ながら(空砲を)撃つタイミングを旗で特科隊員に伝えた。最後の一斉射は旗を持つ隊員が中央に集まって一斉に赤旗を上げた)
(↑訓練展示の準備をする隊員達。鉄条網を張り、ススキの壁を置いて敵軍役の陣地を作り上げる)
(↑敵軍役の隊員達。前線近くの隊員3人は伏せて射撃していた(もちろん空砲)上の画像の無線機を背負った隊員が前線指揮官役のようで進行によって一人づつ隊員を後退させる指示をしていた)
訓練展示ではまず、偵察としてOH1観測ヘリが敵軍上空に侵入。不意の74式戦車からの7.62ミリ機関銃による対空射撃には驚いた。
(↑地上からの偵察として偵察隊の軽装甲機動車と87式偵察警戒車にバイクが侵入する。バイクはジャンプ台から跳ねる演技を見せた)
(↑30ミリ機関砲を撃ちながら敵陣近くより離脱する偵察警戒車。その近くではUH1ヘリよりリペリング降下したレンジャー隊員が敵地へ侵入しようと前進している。これは偵察隊が敵を引き付けている間にレンジャーを侵入させる場面という事なんかもしれない)
このレンジャー隊員は第13旅団の新装備を持っていた。M24対人狙撃銃である。
対テロ強化の一環として導入された自衛隊初の狙撃銃。これがようやく第13旅団に配備されていたのだ。これにより旅団は非対称戦(対テロ・ゲリラ)への備えをある程度揃えつつあると見える(他は個人装備だと赤外線暗視装置があれば)
さて、ここで持って来た姉より借りたデジカメの電池が無くなってしまったのである。
幸いに父親から借りたデジカメが予備にあったが、撮影した画像のサイズが大き過ぎるのでここでは公開出来ない。続きは悩み相談桜チャンネルの軍@さくらで公開します。
http://hp.jpdo.com/cgi041/181/joyful.cgi
11月2日。毎年恒例の広島県の陸上自衛隊海田市駐屯地にて行われた記念行事に行って来ました。
今年第13旅団に配備された新装備の1つである軽装甲機動車。画像は第13偵察隊の車輌。
(↑第13偵察隊のシンボルマークである龍。いつみてもカッコイイデザインだ)
(↑第13偵察隊の87式偵察警戒車。今年は式典前の待機位置が教習場から救護所の近くに変わった。
昨年までは第13対戦車隊の車輌が居たが今年の改変で廃止された為に入れ替わったのだろう)
(↑変化は装備だけでは無かった。駐屯地も新しいものが出来ていた。この施設はレンジャー訓練やヘリか
らのロープでの降下を訓練する為のものだろう。他にも駐屯地の海側が防波堤の上に金網の塀が出来た。駐屯地正門近くに駐屯地消防の建物が建っていた)
(↑第13高射特科中隊の81式短距離地対空誘導弾。1番前が発射装置を積んだ車輌。その後ろがレーダーを積んだ車輌。列の一番後ろにあるのが電源車でこの3両1組で発射装置1台を動かす。ちなみに電源車の前にあるのが93式中距離地対空誘導弾。その前は81式の発射装置)
(↑82式指揮通信車に73式小型トラック。その後ろには155ミリ榴弾砲FH70を牽引している74式特大型トラックが見える。どこか森の陰に隠れたような光景である)
(↑駐屯地内を歩くと駐車場に軽装甲機動車がちらほら見える。どうやら第13旅団だと偵察隊と3つある普通科連隊に配備されたようだ。だが、普通科連隊の場合は観閲行進を見た限り第3中隊のみの配備。つまり1個中隊だけの配備らしい)
(↑第13戦車中隊の74式戦車。今年は73式装甲車は無かった)
(↑式典で並ぶ旅団の隊員達。旅団の4分の1に当たる1000人が整列している光景は壮観だ。
画像中央に青い旗を持つ隊員が居る。会場のアナウンスでは今年創設された「第1普通科直接支援隊」だと言う。後方支援連隊には既に同名の部隊があるのだがわざわざ説明するのは何か特別な部隊となったという事なのだろうか?)
(↑国旗入場で敬礼と捧げ銃する隊員達)
(観閲する第13旅団長の平野治征陸将補。今年の8月に就任した新しい旅団長である)
(↑式典が終わり会場から退場する第47普通科連隊の隊列。即応予備自衛官や予備自衛官で編成されるこの連隊は今年の改編で旅団から中部方面混成団に所属が変わった。ちなみに今年参加した隊員達の小銃は89式に統一されいた。昨年は89式と64式の混成だった)
(第13戦車中隊の面々)
(↑観閲行進。第13偵察隊の車輌。中央の画像はぼやけてしまった)
(↑第46普通科連隊の高機動車)
(↑第13特科隊の82式指揮通信車)
(↑第13高射特科中隊の車輌)
(↑第13施設隊の73式特大型セミトレーラーに乗せられたパワーショベル)
(↑第13通信隊の車輌。パラボラアンテナを装備した車輌が衛星単一通信可搬局装置JMRC-C4。トラックの方が無線搬送装置2号JMRC-C20/C21/R20(中型無線通信車)である)
(↑第13後方支援隊所属の衛生隊の車輌)
(↑第47普通科連隊本部管理中隊の82式指揮通信車)
(↑第13戦車中隊の74式戦車。上手い具合に撮影出来なかった)
まだありますが、次回に続きます。
今年第13旅団に配備された新装備の1つである軽装甲機動車。画像は第13偵察隊の車輌。
(↑第13偵察隊のシンボルマークである龍。いつみてもカッコイイデザインだ)
(↑第13偵察隊の87式偵察警戒車。今年は式典前の待機位置が教習場から救護所の近くに変わった。
昨年までは第13対戦車隊の車輌が居たが今年の改変で廃止された為に入れ替わったのだろう)
(↑変化は装備だけでは無かった。駐屯地も新しいものが出来ていた。この施設はレンジャー訓練やヘリか
らのロープでの降下を訓練する為のものだろう。他にも駐屯地の海側が防波堤の上に金網の塀が出来た。駐屯地正門近くに駐屯地消防の建物が建っていた)
(↑第13高射特科中隊の81式短距離地対空誘導弾。1番前が発射装置を積んだ車輌。その後ろがレーダーを積んだ車輌。列の一番後ろにあるのが電源車でこの3両1組で発射装置1台を動かす。ちなみに電源車の前にあるのが93式中距離地対空誘導弾。その前は81式の発射装置)
(↑82式指揮通信車に73式小型トラック。その後ろには155ミリ榴弾砲FH70を牽引している74式特大型トラックが見える。どこか森の陰に隠れたような光景である)
(↑駐屯地内を歩くと駐車場に軽装甲機動車がちらほら見える。どうやら第13旅団だと偵察隊と3つある普通科連隊に配備されたようだ。だが、普通科連隊の場合は観閲行進を見た限り第3中隊のみの配備。つまり1個中隊だけの配備らしい)
(↑第13戦車中隊の74式戦車。今年は73式装甲車は無かった)
(↑式典で並ぶ旅団の隊員達。旅団の4分の1に当たる1000人が整列している光景は壮観だ。
画像中央に青い旗を持つ隊員が居る。会場のアナウンスでは今年創設された「第1普通科直接支援隊」だと言う。後方支援連隊には既に同名の部隊があるのだがわざわざ説明するのは何か特別な部隊となったという事なのだろうか?)
(↑国旗入場で敬礼と捧げ銃する隊員達)
(観閲する第13旅団長の平野治征陸将補。今年の8月に就任した新しい旅団長である)
(↑式典が終わり会場から退場する第47普通科連隊の隊列。即応予備自衛官や予備自衛官で編成されるこの連隊は今年の改編で旅団から中部方面混成団に所属が変わった。ちなみに今年参加した隊員達の小銃は89式に統一されいた。昨年は89式と64式の混成だった)
(第13戦車中隊の面々)
(↑観閲行進。第13偵察隊の車輌。中央の画像はぼやけてしまった)
(↑第46普通科連隊の高機動車)
(↑第13特科隊の82式指揮通信車)
(↑第13高射特科中隊の車輌)
(↑第13施設隊の73式特大型セミトレーラーに乗せられたパワーショベル)
(↑第13通信隊の車輌。パラボラアンテナを装備した車輌が衛星単一通信可搬局装置JMRC-C4。トラックの方が無線搬送装置2号JMRC-C20/C21/R20(中型無線通信車)である)
(↑第13後方支援隊所属の衛生隊の車輌)
(↑第47普通科連隊本部管理中隊の82式指揮通信車)
(↑第13戦車中隊の74式戦車。上手い具合に撮影出来なかった)
まだありますが、次回に続きます。
最近どうも気分が落ち込んだり重い時が多い。
何やら心が疲れたような重い感じだ。
気分が重いと「嫌だ嫌だ」と思うような時もよくあるようになった。
それに泣いてしまいそうな気分になる時もある。
悲しいこととか無いのにだ。
仕事や会話はまだ大丈夫だ。
そうなので単に気分の問題かと思ったが今日は一日中頭に重い幕みたいなのが降りたみたいで
気分が重く憂鬱だった。
鬱病チェックだと50点ぐらいだったなあ。軽い鬱または予備軍だそうだが合っているかちょっと疑問かな。
鬱病の診断も誰もがよく当たるのが多いと聞くし。
日曜日に海田市で自衛隊見て回復出来れば良いが・・・
何やら心が疲れたような重い感じだ。
気分が重いと「嫌だ嫌だ」と思うような時もよくあるようになった。
それに泣いてしまいそうな気分になる時もある。
悲しいこととか無いのにだ。
仕事や会話はまだ大丈夫だ。
そうなので単に気分の問題かと思ったが今日は一日中頭に重い幕みたいなのが降りたみたいで
気分が重く憂鬱だった。
鬱病チェックだと50点ぐらいだったなあ。軽い鬱または予備軍だそうだが合っているかちょっと疑問かな。
鬱病の診断も誰もがよく当たるのが多いと聞くし。
日曜日に海田市で自衛隊見て回復出来れば良いが・・・