[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
そのF14は尾翼に特徴的なマークが描かれていた。それは円の中に横向きの白い妖精に赤い花弁・音符が描かれていて円の下には「三大妖精」とイタリア語で書かれている。どうやら部隊用のロゴらしい。
白い妖精はスノーホワイト(白き妖精)の通り名を持つアリシア。赤い花弁がグリムゾンローズ(真紅の薔薇)の通り名の晃。音符がセイレーン(天上の謳声)の通り名のアテナ。と言うイメージで描かれたのだろう。
藍華はそれを眺めていた。
「藍華!何をボーっとしてるんだ!早く乗れ!」
プリフライトチェックを終えた晃が藍華に怒鳴る。フライトデッキの光景を眺めていた藍華は急いでF14の側に行く。その時には既に晃はコクピットの前部、操縦手の席に座っていた。
(私はここ?)
藍華は後部の空いているその席に座った。そこにはTIDと呼ばれる戦術指示装置の円形ディスプレイとヘッドアップディスプレイを中心に計器が並ぶ。しかし、藍華には何が何やらさっぱりである。
(どうしよう…)
藍華は座席に座ると自身を囲む多種の計器に萎縮する。そんな中、コクピットのキャノピーがゆっくりと閉まる。藍華はそれを見上げて表情が強張る。もう逃げ出せない。
(晃さんに、晃さんに任せればいいのよ!)
心細い思いを晃への期待で紛らわせる藍華。晃はそれを知らず計器の点検を行う。
「藍華。そっちはOKか?」
晃がそう何気なく聞くと、藍華は反射的に「はい、OKです!」と答えた。
点検が終わると機体を留めていたチョークが外され、フライトデッキコントローラーとエアクラフトチーフの許可を得てF14はカタパルトに向けてデッキクルーの誘導を受けつつ移動する。
藍華は後ろを何気なく振り向くと同じF14が付いて来ている。これはアリシア・灯里の機体だ。その後ろからアテナ・アリスの機体が続く。
晃機とアテナ機は甲板前部にあるカタパルトへ。(アテナ機は晃機の発艦後にカタパルトへ)アリシア機は左舷甲板にあるカタパルトに着いた。
発艦に備えてF14は畳んでいた主翼を延ばす。機体の周囲ではクルーによる最終点検とホールド・バックバーをノーズ・ギアに取り付ける作業を行う。そして最後のカタパルトの点検が終わると晃はカタパルトオフィサーに発艦準備を整えた感謝の証に敬礼する。藍華もそれを見て敬礼した。
「グリムゾン・ローズ発艦する!」
晃がそう無線で言うと前傾姿勢でカタパルトの上にあったF14が鎖や綱を解かれた獣の様に勢い良く飛び出す。それは発艦を指して言われるスラング「キャット・ショット」の言葉通りな姿だ。
「ぎいいやあああああ!!」
藍華は発艦の強いGに悲鳴を上げた。晃はそれに驚いて「大丈夫か藍華!」と聞いた。
「だっ大丈夫です…ちょっと驚いただけですよ、ははは」
変な笑いをしながら藍華はこう答えた。それは諦めに似た感情から出てくるものであった。
「スノー・ホワイト発艦!」
「セイレーン発艦!」
無線からは後に続いて空母「アクア」から飛び立つアリシアとアテナの声がした。そして3機のF14は集合して編隊を組み艦隊の上空を飛行する。
ここで藍華は気持ちに少し余裕が出て眼下の風景を見た。蒼い海に空母「アクア」を他の艦艇が距離を空けて囲む様に展開している。それらが作る白い航跡は藍華には綺麗に見えた。
そんな海の模様を感傷的に見ていた藍華を現実に引き戻す通信が入る。
「フロリアン01より三大妖精リーダー。そちらの11時方向から敵機12機接近。警戒せよ」
「グリムゾン・ローズ了解」
早期警戒機からの通信が終わると続いて空母「アクア」から通信が入る。
「三大妖精リーダー。上空にあるティフィーネ(台風)・ロッチャ(岩)の2個小隊と共に接近する敵機を攻撃せよ」
「グリムゾン・ローズ了解」
2つの交信を終わると晃はアリシアとアテナに命令を下す。
「グリムゾン・ローズより各機。これより敵機を攻撃すべく急行する」
「スノー・ホワイト了解!」
「セイレーン了解!」
力強い3人のプリマの声に藍華は改めて戦場に居る事を思い知る。
(これから戦うんだ…これから)
(↑管理人:葛城マサカズ)
休日も無く10日間連続で出勤だった俺は久々の休日を満喫していた。
ピンポ~ン
ヽ( ´ー`)ノ「は~い」
ガチャリ!
「すわっ!何をのんびりしているか!」
(←晃・E・フェラーリ)
(;゜0゜)「あ、晃さん。こんな田舎のむさ苦しい所にようこそです」
「私が何故ここに来たか分かるか?」
( ̄□ ̄;)「はい。小説の事ですね」
「その通りだ。幾ら書いた事無い現代戦の空戦ものだからって遅筆だぞ。
まあ、最近の仕事の忙しさは仕方無いが」
( ̄□ ̄;)「読んでくれた皆さんに、質問に答えてくれた皆さんには申し訳ないです」
「だったら日本酒の酔いを醒まして続きを書け。私は見ているからな!」
( ̄□ ̄;)「はっ、はひ~!」
「返事は『はい』だ!」
( ̄□ ̄;)「はい!晃さん!」
楽天から晃さんのフィギアが届いたよ~
(←戦艦大和の模型の後ろに立つ晃さん。携帯電話のカメラより)
(↓今回買ったフィギアについて)
http://www.toys-works.com/showwindow/aria/pvc_aria_ak.html
その特攻で日本軍は専用の兵器を幾つも開発し実戦に投入した。今回はその一つである「回天」を特集する。
1943年(昭和18年)に2人の将校が海軍上層部に新兵器の構想を持ち込んだ。それは九三式酸素魚雷を動力にして操縦者一名が乗ると言う物だった。それを考えたのは黒木博司中尉と仁科関夫少尉である。この2人は特殊潜航艇「甲標的」(日本海軍の小型潜航艇)の乗員で、彼らはそこから得たであろう人間魚雷の構想を考えて実現させようとした。
昭和18年は日米の戦局が逆転したガダルカナル島攻防戦が日本軍の敗北に終わり、米軍が太平洋とニューギニアで進撃を開始した頃だ。日本軍はガダルカナルの攻防で消耗した戦力が回復出来ず一度陥った劣勢を容易に挽回出来なくなっていた。
しかしながら軍令部は操縦者が魚雷もろとも散る事になるこの新兵器案を「時期尚早」で却下した。
昭和19年になると戦況の悪化は続き、黒木・仁科の両名は焦りを感じた。そして海軍上層部に強く人間魚雷開発の許可を求めた。
海軍省軍務局第一課長山本善雄少将は前回は却下したものの、2月26日に人間魚雷の試作を呉海軍工廠魚雷実験部に3基の人間魚雷を試作せよと命じた。その翌月には①~⑨の番号が付けられた金物と呼ばれる「特殊奇襲兵器」を試作する方針が海軍軍令部で決定された。その中の⑥金物(マルロクカナモノ)として人間魚雷「回天」の試作が決定した。
呉海軍工廠への命令と軍令部の決定で「回天」の開発は決まった。では何故に日本海軍は特攻兵器の開発を決断したのだろうか?フィリピンで神風特別攻撃隊が初めて出撃する半年以上も前に。
ここで当時の海軍将校の特攻への芽生えに注目する。
まずは城英一郎少将。天皇の側にある侍従武官彼は昭和18年6月に航空本部総務部長の大西瀧治郎中将に「特攻航空機」と言う案で文字通り航空機による敵艦への特攻を具申した。当時の大西は城の案を採用する事は無かったが、翌年に神風特別攻撃隊を編成し、出撃させた。少なくともこの時点で個人的には城の意見に同調していたのだろう。
次に海軍で「仙人参謀」とも呼ばれた黒島亀人大佐である。山本五十六連合艦隊司令長官の下で真珠湾攻撃やミッドウェー作戦を立案した人物である。黒島は連合艦隊司令部先任参謀の時に「爆装させたモーターボートでの体当たり」を思いつき、昭和18年7月に軍備を担当する軍令部第2部長になると「必死必殺ノ戦」や「必死必殺戦法」の必要性を説いた。「回天」が⑥金物として試作が決定した時に黒島は第2部長であった。その中には彼が着想した体当たりのモーターボート「震洋」が④金物としてあった。
黒木と仁科だけでは無く将官も昭和18年から特攻への考えが浮かんでいた。どれも「戦局を変えるには今までとは違うやり方で戦わねばならない」と言う考えであった。それが投下して自由落下する爆弾や直進する魚雷では無く、意志を持って敵に向かう人機一体の特攻へと至ったのだ。ドイツやアメリカは大戦後期にはホーミング魚雷を、ドイツは無線で誘導する飛行爆弾やミサイルを開発したが日本は実用化(対艦誘導弾)の目処が立ったのが終戦直前であった為に技術力で特攻は防げず、逆に特攻を促進する為に日本の技術力は使われた。
昭和19年8月に「回天」は正式に採用された。発案者の1人である黒木は9月7日に訓練中に事故で亡くなった。乗っていた回天の内部には自らの事故から回天改良の所見と遺書を書き残した。仁科は11月20日に回天特別攻撃隊菊水隊で出撃。ウルシー環礁で米油槽船「ミネンシワ」を撃沈したと言われる。
そして終戦までに106人が回天での特攻で戦死した。戦果は3隻を撃沈(駆逐艦やタンカー)、4隻に損傷を与えたとされる。
結果から見れば回天は日本の戦局を挽回するには至らなかった。しかしながら106人の回天特攻隊員の決死な思いには敬意を払いたい。
だが、特攻を立案し、実行させた将校には憤りを感じ。特攻に歯止めが出来なかった当時の日本の科学技術力に嘆くものである。
(↑演習で01式軽対戦車誘導弾を構える陸自隊員)
岩永亮太郎原作「パンプキン・シザーズ」の主人公ランデル・オーランド伍長は対戦車部隊に所属した兵士と言う設定である。「保身無き零距離射撃」「命を無視された兵隊」とオーランドにまつわる伝説は恐ろしく勇ましいものである。原作やアニメを見ると生身の人間が戦車に挑むのは超人的なものだと思わせるものだ。しかし、現実世界では私達のお爺さんの世代が生身で戦車に挑む戦いをしているのである。今回は「パンプキン・シザーズ」がスカパーで放送されているのを機会に歩兵による対戦車戦闘を特集する。
戦車と歩兵の戦いは第1次世界大戦から始まった。
1916年9月15日のフランス、ソンムに現れたイギリス軍の新兵器「戦車」(マークⅠ)は運用方法が確立されていない為に成果を残す事は無かったが、戦車と初めて対峙したドイツ兵は装甲で固めたボディの戦闘機械に恐怖した。西部戦線異状なしでは「この戦車という奴は何よりも戦争の恐ろしさそのものに見えた」と形容された戦車にドイツ兵は最初こそ陣地を放棄するなど混乱をきたしたが、生まれたばかりの戦車は想像以上に脆いこと(通常の銃弾でも装甲が貫通する防御力の弱さやキャタピラが故障するなど)を知るとドイツ軍は歩兵に戦車狩りを行わせた。
「戦車を撃破または鹵獲した将兵はその名を公式戦報に記載するとともに叙勲する」
1917年8月21日には参謀次長のルーデンドルフはこう公布した。
歩兵が戦車に立ち向かう武器としてまずは7.92ミリ口径のモーゼル銃(Gaw71やGaw98小銃)にタングステン鋼の弾芯がある特殊弾薬(SmK弾)を使用させた。元は長距離の狙撃に使われるSmK弾は装甲が薄いマークⅠには効果があり、機関銃用にもSmK弾は配備されたがイギリス軍はすぐに装甲を強化したマークⅣを投入した。しかし、ドイツ軍も口径13ミリのM1918対戦車銃を開発して実戦に出すなど戦場での盾と矛のシーソーゲームが始まった。
また、戦車攻撃には砲兵が野砲での直接照準射撃を行った。歩兵は砲兵が投入できない場合の為に拠点に配備された。これらの歩兵は対戦車攻撃訓練を行った者達である。戦車と戦う時はそれぞれの装備を持ち戦車に挑む。
SmK弾による小銃や対戦車での射撃に戦車へ直接攻撃する歩兵が蟻のように群がる。彼らはカナトコや銃剣で戦車の開口部をこじ開けて内部に銃撃を加える。またはダイナマイトなどの梱包爆薬をキャタピラや車体後部に置いて破壊する。それに手榴弾の弾体を束ねた集束手榴弾や火炎瓶も用いて戦車の破壊が行われた。また、破壊した戦車の天井から黄燐手榴弾を投げ込んで戦車の乗員を窒息させるなどの戦術で歩兵は戦車と戦った。
これら戦闘機械との白兵戦は戦車と歩兵の連携が出来ていないからこそ出来た戦術であった。(この辺りがパンプキンシザーズでの題材になったのだろうか?)
歩兵によるこれら決死の戦車狩りと砲兵が野砲での直接照準射撃でドイツ軍上層部は戦車への対応策は完全だとした。それは1917年11月のカンブレーの戦いで英軍戦車179両を撃破した事から自信を深めた。だが、1918年8月のアミアンの戦いではカンブレーで得た戦車での急襲に加え、歩兵との連携でドイツ軍の対戦車防衛線を突破して更に進撃した。こうして第1次世界大戦では戦車の突破力を実証したと同時に歩兵による防御だけでは戦車は止められない事も実証した。前者はドイツの装甲軍団で電撃戦を展開して発展をさせたが、後者は新たな兵器の登場までにほぼ初期のやり方で各国は戦車との戦いに備えた。
第2次世界大戦になるとドイツ軍は88ミリ高射砲で、ソ連軍は野砲で長射程での敵戦車撃破が出来たが、広いロシアの戦線では味方の小銃や機関銃の援護を受けながら歩兵は集束手榴弾・工兵の爆薬に対戦車地雷・でキャタピラ・砲塔基部を破壊して撃破した。
また、スペイン内戦やソ・フィン戦争では火炎瓶が有効な兵器(日本軍もだ)として使われた。
カナトコや銃剣で戦車内部をこじ開ける事は無くなったが、基本は変わらなかった。この大戦では対戦車砲と言う新たな兵器もあったものの完全に戦車の進撃を防げず歩兵が仕留める場面が多かった。その場面で有効な兵器がアメリカの開発したバズーカであり、ドイツのパンツァーファウストである。これらの兵器は成形炸薬弾を発射する。成形炸薬弾は着弾すると一方向に爆発のエネルギーを集めて戦車や装甲車の装甲を貫通する。
バズーカもパンツァーファウストも対戦車砲より射程(バズーカは250メートル。対戦車砲は目標の装甲によるが500メートル以下から有効射程)は劣るものの、火炎瓶を投げたり、地雷を押し込んだりとするよりも距離を置いて隠れながら攻撃が可能である。これは身を晒して戦車に挑むよりも生存率は高い。何よりもそんな兵器が1人で携帯できるのが最大の利点であった。
だが、旧日本軍は地雷や爆雷による歩兵による捨て身の攻撃が対戦車攻撃の主流だった。バズーカの様な携帯式対戦車兵器は終戦前に生産はされていたが実戦には間に合わず、本土決戦で日本軍は戦車に破甲爆雷を背負った歩兵を乗せて米軍の戦車に挑もうとしていた。
日本軍の場合は戦車や火砲の対戦車能力の乏しさが歩兵に戦車への接近戦を続けさせる事となった。
戦後になるとバズーカやパンツァーファウストは進化して(後者はそのまま進化して欧州や自衛隊でも使われているし、RPG7のモデルとなった)戦車と歩兵の戦いは初期の歩兵が戦車に密着して攻撃する方法からある程度の距離で戦える様になった。第4次中東戦争では携帯式の対戦車兵器としてミサイル(AT-2サガー)も登場し、歩兵の対戦車攻撃能力は飛躍的に向上した。だが、戦車もリアクティブアーマーと言う爆発によって敵弾の威力を弱める装備を施して対抗した。
そして現在ではイラクで新たな敵であるゲリラと戦車は対峙している。2003年10月に米軍のM1エイブライズム戦車1両が仕掛けられた爆発物で砲塔が吹き飛ぶ程のものだった。(対戦車地雷7個を重ねて地中に埋めていた!)これに米軍は戦車にリモコン式の機銃や車体下部にスカートを増設して仕掛け爆弾や不意の攻撃に対処している。
また、イスラエルもメルカバMk3戦車が2002年にパレスチナゲリラの仕掛け爆弾で大破している。戦車と人間の戦いは新たな局面を迎えている。この場合では戦車は見えない脅威に備えると言う不利な状況である。対してゲリラはかつての歩兵の様な急迫さは無く、自らの有利な時に仕掛けた爆発物を使えば良いのだ。
第2次世界大戦でのドイツ軍の対戦車戦闘についての映像
http://youtube.com/watch?v=dQiQO2kOcwI&mode=related&search=
「藤田兵器研究所」より太平洋戦争時の日本軍の対戦車戦闘の解説(メイドなドールが教えます(笑))
http://www.horae.dti.ne.jp/~fuwe1a/newpage414.html
(↑東京都町田市の立て籠もり事件でのSIT)
愛知県長久手町で起きた立て籠もり事件は29時間という長丁場の末に解決となった。
しかし、今回は撃たれた警官を長時間放置し、SAT初の殉職者を出すと言う不手際が目立つ事件である。
犯人が人質を取り、38口径の強力な拳銃を持っているとはいえ、撃たれた警官をなかなか救助出来ない所に素人ながら疑問がある。警官が倒れていた位置が犯人宅の敷地の奥と言う難しい位置であるのがネックであり、「救急車でも近づくと撃つ」と犯人が公言した事(SATでの救出時に犯人がすぐに発砲した)から現場を指揮する者の判断を迷わせたに違いない。
やろうと思えば放水や催涙ガスを犯人宅に向けて放ち、犯人を牽制している間に救出という事も考えられるが犯人宅でも壊してまで実行する事は考えられる所では無い。かと言って、SATや銃器対策部のMP5短機関銃を犯人宅に撃ち込むと言う軍隊みたいな牽制もあり得ない。悲しい事であるが、あの時点で警官を救出するのは現場の統括や県警本部が早くに強攻策を決断しない限りは夜間での救出以外に方法は無かったと言える。
こうなると警察には拳銃事件対策に犯人の居る建物をも損壊できる法があれば良いかもしれない。そうなると問題は人質である。事件の早期解決に人質の生命無視ではいけない。そこに警察独特のジレンマがある。
それは犯人をも人権があると言う事も絡み今回の様な長丁場になったのだ。
狙撃や突入での制圧が可能でも犯人を五体満足で捕まえる。これが普遍に続く警察の犯人逮捕における原則となった。(過去に犯人を狙撃した事を人権団体から訴えられた事も大きく影響しているのだろう)
しかし、ながら今回の事件で現場周辺の住民は帰宅も出来ず店舗は閑古鳥が鳴く目に遭ってしまった。事件とは関わりなく、守られるべき住民の生活を阻害してまで1人の犯人の人権は守られるべきかが大きな問題である。それは先月の東京都町田市での立て籠もり事件でもそうだ。あの事件は人質無しで立て籠もる犯人にSITが犯人の居るアパートの部屋のすぐ側まで接近したにも関わらず深夜まで待っての突入となった。
この2つの事件で守るべき市民を事件から解放するか、あくまでも被害者・犯人双方の人権重視で行くのか警察は岐路に立ったのでは無いのだろうか?単独での立て籠もりにはSATやSITの突入も出来るようにして欲しいものだ。で、なければ俺を含めた納税者は警察を頼もしく思えない。
また、今回の事件では初の殉職者を出したSATの士気に影響が出ないか心配だ。目の前で仲間が殺されたにも関わらず待機を強いられたのだ。犯人確保でSATが群がり押さえ込む所は彼らの憤りを感じた様に思えた。