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なので2月にあった歴史の出来事(主に戦史)を取り上げてみたい。
その第1弾として太平洋戦争の戦局を大きく変えたガダルカナル島攻防戦の最期である日本軍撤退について。
1941年(昭和16年)12月から始まった太平洋戦争は日本軍優勢に進んで東南アジア・西太平洋を席巻した。
日本海軍はアメリカとオーストラリアの連絡線を遮断するとしてフィジー諸島・サモア諸島を攻略する(FS作戦)の準備的なものとしてソロモン諸島のガダルカナル島を占領し、飛行場を建設した。
この飛行場の滑走路が完成した時に戦局はミッドウェー海戦で日本軍が敗北。米軍は次の反撃として1942年8月。ガダルカナル島を攻略するウオッチタワー作戦を実行。海兵師団が上陸して多くが飛行場建設の部隊であるガダルカナルの日本軍は飛行場を捨てて内陸へ後退した。
米軍は飛行場を中心に陣地を構築。日本軍は一木支隊に川口支隊と部隊を送り込むが米軍に撃退される。
10月。この状況に日本軍は総力を挙げての反撃を決意。海軍は戦艦「金剛」・「榛名」で飛行場を砲撃。陸軍は第2師団を送り込む。米軍は「エンタープライズ」・「ホーネット」を基幹とした空母機動部隊をソロモン諸島へ進出させた。そして日米の機動部隊が激突する南太平洋海戦が展開される。日本軍は米軍の空母を1隻撃沈、もう1隻を撃破して勝利したが日本機動部隊の航空隊が壊滅的な損害を受けていた。陸軍も1個師団を投入した総攻撃が失敗。日本軍のガダルカナル奪回作戦はここに頓挫した。
それからも第38師団や重砲部隊がガダルカナルに派遣されるものの、ガダルカナル島の制空権も制海権も米軍が握っていた為に補給が続かず日本軍将兵は飢餓に見舞われた。
日本海軍は決死の駆逐艦や潜水艦でのネズミ輸送を行うものの、運べる物資が少なく焼け石に水であった。
2万名以上の将兵が居たが多くが飢えて体力を失い、病と栄養失調で戦う事が不可能となっていた。
この行き詰まりにガダルカナルでの勝利が絶望的になっていたが誰もはっきりと「失敗です」と言ってガダルカナルでの作戦を中止させる言葉が出ずにいた。
連合艦隊司令長官山本五十六は「よし、俺が悪者になろう」と言ってガダルカナル島からの撤退を意見具申しようとする発言をした。
だが、一番大きな役割をしたのは昭和天皇である。戦局を憂いた天皇の意向で翌年1月4日の御前会議を12月31日に行なった。ここで海軍軍令部総長永野修身は天皇に奏上した。
「ソロモン方面ニ於キマシテハガ島奪回作戦ヲ中止シ概(おおむ)ネ一月下旬乃至(ないし)二月上句ニ亘(わた)ル期間ニ於キマシテ陸海軍協同アラユル手段ヲ尽シマシテ在ガ島部隊ヲ撤収致シマス」
ガダルカナル島撤退を天皇に意見具申したのだ。天皇は「この方針に最善を尽くすように」と答えて決裁した。
ここにガダルカナル島撤退が決まる。
1943年(昭和18年)1月。ガダルカナル島撤退の作戦ケ号作戦が準備される。連合艦隊司令部はラバウルの南東方面艦隊・第八艦隊と作戦を協議していた。陸軍は撤退作戦を伝える役目として第八方面軍参謀の井本中佐と佐藤少佐が撤退援護の1個大隊に通信部隊を引き連れて1月14日にガダルカナル入りした。
ガダルカナルの日本軍は飢餓により半数以上の兵を失っていた。他の友軍とも隔絶したガダルカナルの日本軍(第十七軍)の司令部や師団長は玉砕をする覚悟だった。井本・佐藤にも撤退は不可能であるから最後の斬り込み突撃を敢行して皇軍の栄誉を保つべきだと第十七軍参謀は頑なに撤退反対を説く。
けれども第十七軍司令官百武晴義中将は大本営の決定に従うとして「大命を万難を排して遂行するに決裁す」と撤退を決めた。
撤退はガダルカナル島西部に部隊を移動させて行う事とした。部隊の位置から第38師団から行われた。
2月1日。第1次撤退
駆逐艦20隻で第38師団将兵を中心に5400人以上が撤収。
2月4日。第2次撤退
駆逐艦20隻で第2師団を中心に5000人以上が撤収。この時第十七軍司令部も撤退。
2月7日。第3次撤退
駆逐艦18隻で残存部隊2600人以上が撤収。
この3回に分けての撤収で日本軍はガダルカナル島を後にした。海軍は駆逐艦「巻雲」が撃沈。駆逐艦「舞風」が空襲で損害を受けたが1万人以上を飢餓地獄と化したガ島より救い出した。
だが、撤退命令が届かなかった歩兵第四連隊内藤大隊は全滅してしまう。また、個人単位での残留者も居て最後の1人が昭和27年にようやく降伏する。
撤退後。百武はガダルカナル島での敗北の責任を取って自決するつもりでいたが、第八方面軍司令官今村均大将があなたが「兵を飢えさせたのではない。2万の戦友の霊を見守るためにも生きてください」と説得して自決を思いとどまらせた。
ガダルカナル島を戦った部隊のその後。第二師団はビルマ戦線へと向かい、ここではガダルカナル島で経験した事が役に立ち激戦を戦い抜いた。
第三八師団はラバウルで他の部隊と共に自給体制を作り上げて終戦を迎える。
ガダルカナル島では3万人以上の日本軍が上陸した。戦死は5000人を出したが、最も多かったのは飢餓による戦病死15000人であった。
このガダルカナル島の戦い以降。補給が途絶した戦場で多くの日本軍将兵が戦うよりも飢えに苦しむ事になるのである・・・。
(中日新聞)
2月3日から広島県と島根県の県境にある恐羅漢山にあるスキー場でスキー客とスキー場の従業員合わせて7人が遭難した。
今日5日の捜索で7人全員が無事発見された。
この捜索では広島県知事の要請で陸上自衛隊第13旅団から災害派遣で人員とヘリが恐羅漢山に向かい5日から捜索に参加した。
ニュース映像では白いスキー板とストックを装備した自衛隊員が捜索に行く模様が映っていた。
またニュース映像を見ると、トラックの幌に付けられた「災害派遣」の幟の下に書かれた部隊名と駐屯地を見ると「広島県海田市駐屯地」と見えた。捜索はその駐屯地にある第46普通科連隊で行われたものと考えられる。
同じくニュース映像ではOH6観測ヘリが恐羅漢山上空を飛行し、遭難者の病院搬送をUH1汎用ヘリで搬送する映像もあり旅団所属の第13飛行隊も参加していた事が分かる。
これだけ見ても大規模な自衛隊の出動だ。だが、防衛省のサイトにあるこの恐羅漢山出動での情報を見ると想像以上に大規模な部隊の動員があったのだ。
http://www.mod.go.jp/j/news/2008/02/05.html
(防衛省・自衛隊)
島根県の偵察隊と対戦車中隊。鳥取県の普通科連隊など第13旅団所属部隊は分かるものの第10戦車大隊と第14普通科連隊が参加している事に驚いた。
どれも愛知県名古屋市に司令部がある第10師団所属の部隊だ。管轄地域で言えば同じ中部方面隊だが、師団・旅団の警備地区だと兵庫県伊丹市に司令部がある第3師団の警備地区が中国地方と隣接している。
何故に遠くからこの2つの部隊が参加していたのか不思議なものである。
龍造寺・大友・島津の襲来を防いだ小笠原祥子であったが、それから幾度も龍造寺家との合戦が続いた。
この為に肥後統一すら出来ず永禄4年から5年(1561年~1562年)は龍造寺との戦いに暮れた。
「大変です!大友が2ヶ月で我らとの同盟を切りました!」
「戦国時代だからって不誠実にも程があるわ!」
龍造寺を牽制しようと結んだ大友との同盟も友好43で短命に終わった。
翌年永禄6年1月には龍造寺の疲弊した所を狙って人吉城を攻略。ようやく祥子は肥後の国の主となった。
4月にはその龍造寺家が大友家によって滅ぼされる。
「祥子様。島津と同盟を結ぶ事が出来ました」
「龍造寺が滅んだおかげで島津も大友と戦う事になって
流れが変わったわね」
永禄6年5月。小笠原家は島津と同盟を結んだ。(友好75)
祥子の言うとおり九州での勢力図は龍造寺家滅亡で変わろうとしていた。
7月。宣教師ルイス・フロイスと祥子が謁見。祥子はキリスト教の領内布教を認めた。
この時から祥子や小笠原家家臣はロザリオを身に着ける習慣が始まり、隈本城内に立てたマリア像の前で祥子が祐巳の服装を直す姿が見られるようになったと言われる(笑)
「島津が豊後の府内城を落としたから東から肥後が襲われる
心配は無くなったわ。肥前へ攻め入るは今!」
永禄7年3月。小笠原軍は肥前佐賀城を攻略。
「この勢いに乗じて立花山城を攻めるわよ!
あの城を落とせば商業の街である博多が手に入る」
6月。佐賀城攻略の意気も高らかに小笠原軍は立花城へと進軍した。
「まだ、攻めるには早いと思うけど・・・」
志摩子の不安は的中した。立花山城は大友軍が守りを固め、矢に鉄砲の弾が雨あられと小笠原軍に降り注ぎ場内奥へ進む事に兵力は磨り減る。
「こんなに防備が固いなんて!
あ、待ちなさい!逃げてはなりません!」
大友軍は国崩しと呼ばれる大砲をも使い小笠原軍を追い詰める。兵の士気は下がり逃亡兵が相次いだ。
ここに至り祥子も退却を決断せざる得なかった。
「しばらくは立花山城は諦めるわ。取りあえず平戸城を落として
肥前の攻略しましょう・・・」
(相当あの敗北が応えているみたい・・・)
「佐藤聖様率いる軍勢が平戸城を攻略しました。
それと、毛利軍が筑前城井谷城を落としました」
10月には肥前を統一。しかし、12月には毛利軍が瀬戸内海を越えて筑前の大友の城を落とした。これにより九州は小笠原・島津・大友・毛利が入り乱れる状態となった。
翌永禄8年4月。津田監物なる鉄砲鍛冶が佐賀城を訪れ、8月には鉄砲鍛冶の村が佐賀城城下にできた。
「申し上げます。立花山より大友の大軍が出陣。
城井谷城へと向かっているようです」
「好機ね。立花山城を落とす好機だわ」
小笠原軍は夏の日差しを受けながら再び立花山城へと向かう。雪辱を晴らさんが為に。
「島津軍が先に仕掛けたけど撃退されたね。
だけど、大友軍もダメージも少ないない筈」
「敵に休ませる暇を与えるな!一気に攻めよ!」
前回とは違い兵力が少ない立花山城。島津軍との戦いの疲れが残る大友軍は小笠原軍を食い止められず本丸までの侵入を許し、落城した。
ここに大友家は滅亡した。
「おめでとうございますお姉様。じゃなくて!お館様!
博多を手中にする事で我らの経済力も大きくなりますね」
「ありがとう祐巳。これで小笠原家も大きな基盤を得る事が出来たわ。
これで朝廷との友好を高める余裕が出来た」
9月に立花山城を攻略すると、祥子は肥前・肥後の2カ国に筑前の半分を有する大名となっていた。
「我が主君小笠原祥子より帝へ献上致しまする」
12月に瞳子は京の内裏へ参内。金1500を献上した。
翌永禄9年1月。小笠原軍は城井谷城を落とした。これにより筑前を平定した祥子。九州には同盟を結んだ島津しか残っていない。
果たしてこれから祥子と薔薇の家臣達の行方は如何に・・・。
(九州の北半分が版図となった小笠原家の図。
最初の頃と比べると凄い巻き返しである)
(立花山城攻略時点での小笠原家の威信。
支配36 名声64 本城3 支城2 総合威信値100)
(連戦により昇格した面々。山百合会メンバーは全員侍大将になった)
ちなみに本プレイでは
祥子・祐巳・瞳子・聖・志摩子・乃梨子・令・由乃を武将として作った。
本当は蓉子さんも作りたかったが、漢字の「蓉」が無くて断念orz
(携帯電話のカメラでの撮影。祥子様を筆頭にした小笠原家を作ってみた。にしても顔のグラフィック男しか無いのが悲しいところ・・・)
(小笠原家家臣団の面々。一番下は佐藤聖が登用した浪人)
スタートはキリスト伝来という事で九州肥後の国。
1560年(永禄3年)隈本城は山百合の家紋を掲げる小笠原家の居城となったのであった。
「まずは、来るべき九州統一に備えて内政重視で行きましょう。
祐巳。水田と村を作りなさい」
(※水田で食糧増産。村で兵士を増やす)
「水田はLv2が4つ、(畑が2つある)村はv2を3つ(Lv3が1つある)が出来ました。お姉さ・・・じゃ、なくてお館様!」
「これである程度基盤が出来た訳ね。
では人吉城を攻めて肥後の国を統一するとしましょう。背後の安全を考えて
龍造寺と同盟を結ぶわ」
「残念だけど、龍造寺家は同盟を断ったよ。島津家もね。
試しにやってみた人吉城の取り込みも全部失敗しちゃった」
「・・・・こうなったら危ない橋を渡るけど人吉城攻めをするわ
祐巳。出陣の準備を!」
永禄3年秋。山百合の紋章に赤薔薇・黄薔薇・白薔薇の旗を掲げた小笠原軍が隈本城から出陣。
一路肥後の国南部にある人吉城へ向かう。
「お姉様!大変です!龍造寺・島津・大友の軍勢が隈本城に向かっています!」
「なんですって!!すぐに全軍隈本城に引き返すしなさい!」
島津・龍造寺は同盟を組んで小笠原軍が人吉城に行っている間に隈本城を挟撃する策であった。大友もこれに加わり三方から攻められる事となってしまった。
祥子は隈本城でこれら3つの軍勢を迎え撃とうとしていた。
「まずは龍造寺軍を撃退できたけど、島津・大友がまた残ってるんだよねえ」
(小笠原家領内に侵入した敵軍。左が島津・右が大友)
「少し様子を見ましょう。兵糧が尽きて陣を退くかもしれないわ」
この予想は的中した。秋から年を越すまで対陣していた島津軍は兵糧が尽きて薩摩へと帰って行った。
「残るは大友勢のみ!出陣!」
隈本城から満を持してと言わんばかりに小笠原軍が出陣する。赤・黄・城の薔薇の幟を掲げる軍勢に大友軍は呑まれて行き、勝負は決した。
「今は勝てた。だけど、孤立した私達はこれからどうなるのか・・・・」
志摩子の憂鬱は小笠原家の現状である。この勝利でも島津・龍造寺・大友との敵対と言う四面楚歌の状況が続くのだ。
前途の危うさに戦勝も霞んでいた。
それはプレイをする本人も不安で堪らないのである(笑)
(続く?かもしれない)
1月31日。広島県の海田市駐屯地で陸上自衛隊第13旅団と中国5県の警察が参加しての訓練が行われた。
訓練内容は、銃で武装した工作員を鎮圧すべく自衛隊に治安維持出動命令が下る。鎮圧作戦を自衛隊と警察が合同で行うシナリオだ。
訓練では、白バイやパトカーに先導されて82式指揮通信車・トラックを連ねて出動する自衛隊。自衛隊のUH1ヘリからリペリング(ロープでの降下)で地上に降りる警察の銃器対策部(リペリングも出来るのに驚いたな)自衛隊・警察の合同司令部である「共同調整所」の設置の場面がニュース映像では見れた。
(ただし、工作員鎮圧の場面はマスコミに公開されず)
どれも近年各地で行われる自衛隊と警察の合同訓練の様子だ。それがとうとう広島県でも行われた訳である。
今回は中国5県の警察も参加した事で、中国地方での自衛隊・警察の連携への1歩が踏み出されたと言う重要な意味もある今回の訓練は意義が大きい。
そもそも、自衛隊と警察は連携が出来る関係では無かった。1976年のミグ25戦闘機が函館に亡命目的で強行着陸した事件では現場を警察が終始押さえていた。戦闘機と言う軍事に関するものであっても当時の根深い反軍思想もあって自衛隊を半ば排除する形で事態が進んでいた。(函館の自衛隊はもしもソ連軍が襲来すれば法を無視してでも駐屯地から出て戦う覚悟だった)
こうした物別れの関係も、北朝鮮の大規模な特殊部隊や911以降懸念されるテロが脅威になると、自衛隊と警察の連携が模索されて現在行われる各地の訓練に繋がっているのだ。
自衛隊と警察の連携が上手く行くとどう良くなるのか?
ここでシュミレートしてみる。
島根県にある島根原子力発電所を狙って某国の工作員が広島空港から日本に入国した。
その工作員の情報を持つ広島県警の外事課が工作員の入国を察知した。この情報から広島県警は工作員の動向を追うべく捜査を開始する。
捜査でその工作員は他の工作員と合流し、車で島根県目指して移動を開始した。警察は島根県警や鳥取県警・岡山県警・山口県警へ広域の捜査協力を求める。
島根県警の検問で工作員達は強行突破に自動小銃を使う。それから島根県警が工作員達を追うも自動小銃にロケット弾を前に近づけずにいた。
工作員はそこを突いて島根原発へと向かう。
ここに至り政府は自衛隊に治安維持出動命令を出す。中国地方を担当する第13旅団は現場に部隊を出動させる。この時に警察が先導し、通過する道路では警察によって道が確保される。また、工作員が潜伏すると思われる地域では警察によって避難勧告(国民保護法で自治体も行うだろう)を行い、避難民を誘導する。海田市の旅団司令部では警察から工作員の情報を知り戦力と能力を把握していた。
現場の自衛隊・警察の本部である「共同調整所」でも警察の知っている工作員の情報から作戦を練る。自衛隊が工作員を包囲しながらジワジワ追い込む作戦が立てられた。
また、作戦地域以外では警察が各地を工作員が他に居ないか自衛隊と共に広い範囲での監視体勢を作り上げる。
自衛隊の作戦が成功して工作員全員を鎮圧。島根原発への侵入を防いだ。捕らえた工作員は警察に引き渡し状況終わりとなる。
SATもある程度の銃器を持った相手と戦えるが、自動小銃からロケット弾まで装備したよく訓練された工作員相手だと警察でも手に負えないだろう。自衛隊と共同行動取る際には自衛隊が活動しやすい環境を整えるのが警察の役割になると思う。自衛隊の援護でSATや機動隊がメインで行動するのは有り得ないだろうと思われる。