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祐巳と瞳子の軍勢も到着し、京を中心とした近畿地方への足掛かりを築いた。
「浅井家との同盟を結んで参りました。これで本願寺攻めに
全力を振り向けますよ」
「こっちもさっき禁裏から帰った所よ。ようやく従七位下東市佑
の官位を貰えたわ」
「上洛してから順調ですね。お姉さ・・・いやいや、御館さま」
「まだこれからよ。ここは本願寺の勢力圏なのだから。
同盟を結んだ浅井も本願寺と縁が切れたか怪しいものだわ」
「申し上げます!本願寺の軍勢が石山御坊より出陣!京へ向かっています」
「ただちに出陣!京には入れさせない!」
石山本願寺の本拠地である石山御坊より出陣したのは当主である本願寺顕如自ら率いる軍勢だった。
本願寺にとっては懐に飛び込んだ敵という軍事的な意味もあったが、何よりもカトリックの信仰がある小笠原家を畏怖すべき宗教上の敵として見ていた。
出陣に辺り顕如は諸将や兵らに「これより邪教の軍勢より京を取り戻す」と檄を飛ばしたという。
まさに宗教戦争の様相を見せ始めた小笠原家と石山本願寺との戦い。
その初めてとなる大規模な合戦が淀川を挟んで展開された。
両軍とも退かず攻め立てる。小笠原軍は京を失いかねない。本願寺軍は勢力圏の中心地から小笠原軍を撃退して威信を保てるかどかの瀬戸際である。
淀川の下流が濃い血の色で満ちた時に雌雄は決した。
小笠原軍の勝利であった。
「まるで葬列みたいだわ・・・」
戦場より離脱する本願寺軍。その中でも統制を保つ軍勢の姿を見て祥子は思った。
その祥子の予感は当たっていたと言える。
この合戦で石山本願寺の大きな柱である本願寺顕如が戦場に散ったのだ。これを受けて本願寺は新たな当主に本願寺証恵を迎えて小笠原家との戦いを続ける事を誓った。
淀川合戦より一週間後 備前天神山城
「もうこれ以上は進めません・・・」
「ここが潮時ね。全軍撤退!」
本願寺の備前天神山城の攻略が始まった。堅陣を知略を尽くした策では無く戦力の大量投入という人海戦術に打って出た。
志摩子と乃梨子の先鋒隊。これが天神山城の防御力である門を壊し、守備兵力を削ぐのだ。
激しい本願寺勢の抵抗で二の丸でさえも近づけ無かった藤堂隊であったが聖率いる本隊が進む道を切り開くという目的は達した。
「行けるぞ!進め!進めえ!」
志摩子・乃梨子隊が与えたダメージは予想以上に大きく。入れ替わりで突入した佐藤聖率いる白薔薇衆主力は次々と守備兵を蹴散らし城内の門を開いて軍勢は進み、とうとう遠くにさえ感じた本丸を落とし天神山城は陥落した。
この6月に起きた二つの小笠原家と石山本願寺の戦いは勢力図を塗り替える分岐点となった。
だが、依然として本願寺は強大な勢力を保ち対峙している。
その裏では近江を巡って浅井と朝倉家が攻防を繰り広げていたが、美濃を制覇した織田信長が浅井と朝倉の両方を呑み込むように滅ぼして近江を勢力圏に置いた。
近畿の戦場は新たな勢力を迎えていた。
「ならば織田家と同盟を結びます」
小笠原家には二大勢力を相手取る力は無かった。本願寺との雌雄がまだ決まらないこの時勢では祥子には選択肢は無かったと言える。
永禄12年7月。小笠原家と織田家の同盟が成立。
この時に祥子と面会した信長は後に家臣へこう語ったと言われる。
「あの女は野心に満ちておるわ。ワシ以上に」
祥子が石見や因幡で毛利を攻めている時に支倉令と島津由乃の黄薔薇衆は安芸と備前に進撃していた。
永禄11年7月に由乃が安芸の鶴首城を、10月には令が備前国の津山城を攻略した。
この2つの城を攻略した事で小笠原家は新たな敵との戦いが始まったのである。
それは石山本願寺。
この時点で近畿地方を中心に5カ国もの版図があり武将も50人を越える最大の力があった。そんな強敵と祥子は対峙したのである。
永禄12年2月 永禄安芸国鶴首城
本願寺軍の抑えに黄薔薇衆のみならず佐藤聖・藤堂志摩子・二条乃梨子からなる白薔薇衆が鶴首城に着陣した。
この時。佐藤聖は部将に昇進していた。
「にしても厄介な城だねえ」
「これでは簡単に前には進めそうに無いわ」
二人の目の前にはある図面が広げられている。
備前の天神山城の縄張りや構造が描かれている。それを簡単に描くとこうである。
城へ突入すると赤い部分で攻撃側は大打撃を被る。敵の前の前を
横切って行くからだ。それを防御側は高い本丸と二の丸から鉄砲と
弓矢で撃つ。攻者にとって地獄の間がそこにあった。
しかも本丸までは城を半周して回らねばならない。
「たった今戻りました。天神山城への工作失敗しました・・・申し訳ありません」
「いいのよ乃梨子。忍び破りの城だもの仕方ないわ」
「乃梨子。ちょっと聞きたい事があるんだけど」
「何でしょう?」
「こんな事を聞くのは編だけど本願寺と今戦っているけど気持ちは大丈夫?」
二条乃梨子。彼女はカトリックの信仰が強い小笠原家にあって仏像をこよなく愛好する趣味を持っていた。
聖は現在対峙している本願寺との戦いにその好事が引っかからないか気になっていた。
「大丈夫です。仏像と戦は関係ないと思っていますから」
「乃梨子を疑うなら私も疑われないといけないわ」
一方の志摩子は寺の住職の娘である。見方によっては乃梨子以上に仏教信仰に近いものがる。
「二人とも疑ってすまない。だけど、本願寺との戦いは今までとは違う。新たに加わった武将が新興勢力の私達より昔からの威光が強い本願寺にいつ寝返るか分からない。信仰とは怖いものであるからね」
鶴首城や津山城攻略戦で今まで以上にはあまり軍門に下る武将は居なかった。逆に本願寺からの調略でまた本願寺に帰る武将も出ていた。こうした状況から祥子は白薔薇衆も送り備前戦線を安定させようとしていた。
一方で祥子率いる赤薔薇衆を中心にした小笠原家本隊は鳥取城を攻略し毛利家を滅ぼした。
白薔薇衆と黄薔薇衆が足止めを受けていたが、赤薔薇の戦いは好調であった。
因幡を平定すると上杉家の勢力下にある山城国へと進撃。その城を次々と攻略した。
永禄12年5月 山城国八上城
「今や目と鼻の先に京の都があるのね」
京より北方の山岳地帯にある八上城。祥子は山々の向こうにある煌びやかな京の都を思い浮かんだ。
肥後半国から出発してここまで進み続けたのである。感慨深いものがあるのだ。
「申し上げます。長宗我部の軍勢が紀州雑賀城を攻略したそうです。
これに本願寺軍は京の兵力をも紀州の防衛に回したようです」
四国で島津家と戦っている筈の長宗我部元親は何故か紀伊水道を越えて紀伊国の雑賀城を攻略した。だがこの兵力の無駄使いは長宗我部家の命運を縮める事となる。逆襲に出た本願寺と四国で追い詰める島津とで挟み撃ちとなったからだ。
「好機ね。出陣よ!今から京へ上洛するわ!
長宗我部に京は渡さないわ」
実は小笠原家は中国攻めに集中すべく長宗我部と同盟を結び側面の安全を図っていた。だが、島津は長宗主我部と敵対していた。
もしも長宗我部が先に京に上洛してしまうと同盟破棄という手段でしか上洛は叶わなくなる。
「ですが、祐巳様がまだ帰っておられませんが・・・」
この時に祥子を支える右腕の部将である福沢祐巳は建部山城攻略を終えたばかりであった。
「・・・・・・・・・仕方ないわ。好機を逃してはならないもの」
多少の心残りを持ちつつも祥子は京へ向かって出陣した。軍勢は急遽の出陣に慌てあがらも士気は上洛するとあって高くなった。
(↑京の室町御所を攻める小笠原軍)
本願寺は中国と紀州へ兵力を向けた為に室町御所の兵力は少なく。1万近い小笠原軍に圧倒されてたちまち陥落した。
永禄12年5月。小笠原祥子上洛。これが新たな局面へと移り変わる時であった。
「皆さまお久しぶりです。小笠原家家臣である福沢祐巳です」
「自己紹介はいいわ祐巳。話を続けましょう。なんだって半年も進んでない
のだから」
「そうですねお姉様。あ、いやお館様。
島津と結んだ我が小笠原家は九州を制覇して新たな進路を決めようとしていました」
1566年(永禄9年)1月に筑前平定を以て九州を制覇した小笠原家。祥子は次の目標を思案していた。
「決めたわ。周防に攻めるわ」
「四国はどうしましか?同盟を結んで安全を図りますか?」
「四国は島津にあげるわ。それと祐巳。周防攻めについてだけど
拠点となる城を下関に城を築いてちょうだい」
3月に下関で祐巳を奉行に支城の建設が始まる。だが・・・
「祐巳。ごめんさない、高嶺城を落としたからもう城はいらないわ」
「えええ~!」
11月に開門海峡を渡り周防へ上陸した小笠原軍。祥子の憂いは杞憂に終わり浦上家の高嶺城は一度の総攻めで落とした。これにより中国地方での足掛かりを得た小笠原家はもう下関に城を作る必要は無くなったのである。
周防に進んだ小笠原家は中国地方の有力大名である毛利家と戦う事となった。
1567年(永禄10年)2月の出雲の福光城攻めを皮切りに毛利との戦いを開始した小笠原軍。安芸の毛利元就の居城である郡山城も落とし、毛利が尼子家より奪取した難攻の月山富田城をもたちまち攻め落とした。
この月山富田城攻めでは小笠原軍は初めて1万もの軍勢を揃える陣容になっていた。
だが、その月山富田城攻め(永禄11年4月)より前に祥子にとって屈辱の出来事が起きていた。
「まったくあの、公家達たらなんなの!」
「京から帰るなり不機嫌ですね」
「官位を貰うには早過ぎる。身の程を知れだそうよ。まったく幾ら金銭を与えて
やったと思っているのかしら!」
永禄10年11月。冬の京へ上洛した祥子は官位を賜ろうとしたが、朝廷より無下に断られてしまったのだ。
また、6月には家臣の丸目長恵が吉弘鑑理野に剣術を教えて野に下り祥子にとっては災難が続く下半期となった。
だが、戦略的には好調である祥子は永禄11年7月に毛利家最後の拠点である因幡の鳥取城攻略で毛利家を滅ぼした。
この滅亡は悲劇を生んだ。毛利元就は祥子の家臣となったが息子の毛利隆元と吉川元春・小早川隆景は小笠原家の臣下になる事を拒み因幡の此隅城で抵抗を続けた。
これに毛利元就が率いる軍勢で攻めて落城させた。総攻め前や落城後には元就の説得が行われたが3人の意志を変える事は出来なかった。
吉川元春は島津家に。毛利隆元は本願寺へと奔ったと言う。
これを後に「三本の矢が折れた時」と言われる毛利家の悲劇である。
この毛利の滅亡で中国地方の半分を手に入れた祥子。だが、新たな強敵が祥子の行く手を阻む。
近江を除く近畿一帯を制し朝廷に絶大な影響力を持つ本願寺である。
龍造寺・大友・島津の襲来を防いだ小笠原祥子であったが、それから幾度も龍造寺家との合戦が続いた。
この為に肥後統一すら出来ず永禄4年から5年(1561年~1562年)は龍造寺との戦いに暮れた。
「大変です!大友が2ヶ月で我らとの同盟を切りました!」
「戦国時代だからって不誠実にも程があるわ!」
龍造寺を牽制しようと結んだ大友との同盟も友好43で短命に終わった。
翌年永禄6年1月には龍造寺の疲弊した所を狙って人吉城を攻略。ようやく祥子は肥後の国の主となった。
4月にはその龍造寺家が大友家によって滅ぼされる。
「祥子様。島津と同盟を結ぶ事が出来ました」
「龍造寺が滅んだおかげで島津も大友と戦う事になって
流れが変わったわね」
永禄6年5月。小笠原家は島津と同盟を結んだ。(友好75)
祥子の言うとおり九州での勢力図は龍造寺家滅亡で変わろうとしていた。
7月。宣教師ルイス・フロイスと祥子が謁見。祥子はキリスト教の領内布教を認めた。
この時から祥子や小笠原家家臣はロザリオを身に着ける習慣が始まり、隈本城内に立てたマリア像の前で祥子が祐巳の服装を直す姿が見られるようになったと言われる(笑)
「島津が豊後の府内城を落としたから東から肥後が襲われる
心配は無くなったわ。肥前へ攻め入るは今!」
永禄7年3月。小笠原軍は肥前佐賀城を攻略。
「この勢いに乗じて立花山城を攻めるわよ!
あの城を落とせば商業の街である博多が手に入る」
6月。佐賀城攻略の意気も高らかに小笠原軍は立花城へと進軍した。
「まだ、攻めるには早いと思うけど・・・」
志摩子の不安は的中した。立花山城は大友軍が守りを固め、矢に鉄砲の弾が雨あられと小笠原軍に降り注ぎ場内奥へ進む事に兵力は磨り減る。
「こんなに防備が固いなんて!
あ、待ちなさい!逃げてはなりません!」
大友軍は国崩しと呼ばれる大砲をも使い小笠原軍を追い詰める。兵の士気は下がり逃亡兵が相次いだ。
ここに至り祥子も退却を決断せざる得なかった。
「しばらくは立花山城は諦めるわ。取りあえず平戸城を落として
肥前の攻略しましょう・・・」
(相当あの敗北が応えているみたい・・・)
「佐藤聖様率いる軍勢が平戸城を攻略しました。
それと、毛利軍が筑前城井谷城を落としました」
10月には肥前を統一。しかし、12月には毛利軍が瀬戸内海を越えて筑前の大友の城を落とした。これにより九州は小笠原・島津・大友・毛利が入り乱れる状態となった。
翌永禄8年4月。津田監物なる鉄砲鍛冶が佐賀城を訪れ、8月には鉄砲鍛冶の村が佐賀城城下にできた。
「申し上げます。立花山より大友の大軍が出陣。
城井谷城へと向かっているようです」
「好機ね。立花山城を落とす好機だわ」
小笠原軍は夏の日差しを受けながら再び立花山城へと向かう。雪辱を晴らさんが為に。
「島津軍が先に仕掛けたけど撃退されたね。
だけど、大友軍もダメージも少ないない筈」
「敵に休ませる暇を与えるな!一気に攻めよ!」
前回とは違い兵力が少ない立花山城。島津軍との戦いの疲れが残る大友軍は小笠原軍を食い止められず本丸までの侵入を許し、落城した。
ここに大友家は滅亡した。
「おめでとうございますお姉様。じゃなくて!お館様!
博多を手中にする事で我らの経済力も大きくなりますね」
「ありがとう祐巳。これで小笠原家も大きな基盤を得る事が出来たわ。
これで朝廷との友好を高める余裕が出来た」
9月に立花山城を攻略すると、祥子は肥前・肥後の2カ国に筑前の半分を有する大名となっていた。
「我が主君小笠原祥子より帝へ献上致しまする」
12月に瞳子は京の内裏へ参内。金1500を献上した。
翌永禄9年1月。小笠原軍は城井谷城を落とした。これにより筑前を平定した祥子。九州には同盟を結んだ島津しか残っていない。
果たしてこれから祥子と薔薇の家臣達の行方は如何に・・・。
(九州の北半分が版図となった小笠原家の図。
最初の頃と比べると凄い巻き返しである)
(立花山城攻略時点での小笠原家の威信。
支配36 名声64 本城3 支城2 総合威信値100)
(連戦により昇格した面々。山百合会メンバーは全員侍大将になった)
ちなみに本プレイでは
祥子・祐巳・瞳子・聖・志摩子・乃梨子・令・由乃を武将として作った。
本当は蓉子さんも作りたかったが、漢字の「蓉」が無くて断念orz
(携帯電話のカメラでの撮影。祥子様を筆頭にした小笠原家を作ってみた。にしても顔のグラフィック男しか無いのが悲しいところ・・・)
(小笠原家家臣団の面々。一番下は佐藤聖が登用した浪人)
スタートはキリスト伝来という事で九州肥後の国。
1560年(永禄3年)隈本城は山百合の家紋を掲げる小笠原家の居城となったのであった。
「まずは、来るべき九州統一に備えて内政重視で行きましょう。
祐巳。水田と村を作りなさい」
(※水田で食糧増産。村で兵士を増やす)
「水田はLv2が4つ、(畑が2つある)村はv2を3つ(Lv3が1つある)が出来ました。お姉さ・・・じゃ、なくてお館様!」
「これである程度基盤が出来た訳ね。
では人吉城を攻めて肥後の国を統一するとしましょう。背後の安全を考えて
龍造寺と同盟を結ぶわ」
「残念だけど、龍造寺家は同盟を断ったよ。島津家もね。
試しにやってみた人吉城の取り込みも全部失敗しちゃった」
「・・・・こうなったら危ない橋を渡るけど人吉城攻めをするわ
祐巳。出陣の準備を!」
永禄3年秋。山百合の紋章に赤薔薇・黄薔薇・白薔薇の旗を掲げた小笠原軍が隈本城から出陣。
一路肥後の国南部にある人吉城へ向かう。
「お姉様!大変です!龍造寺・島津・大友の軍勢が隈本城に向かっています!」
「なんですって!!すぐに全軍隈本城に引き返すしなさい!」
島津・龍造寺は同盟を組んで小笠原軍が人吉城に行っている間に隈本城を挟撃する策であった。大友もこれに加わり三方から攻められる事となってしまった。
祥子は隈本城でこれら3つの軍勢を迎え撃とうとしていた。
「まずは龍造寺軍を撃退できたけど、島津・大友がまた残ってるんだよねえ」
(小笠原家領内に侵入した敵軍。左が島津・右が大友)
「少し様子を見ましょう。兵糧が尽きて陣を退くかもしれないわ」
この予想は的中した。秋から年を越すまで対陣していた島津軍は兵糧が尽きて薩摩へと帰って行った。
「残るは大友勢のみ!出陣!」
隈本城から満を持してと言わんばかりに小笠原軍が出陣する。赤・黄・城の薔薇の幟を掲げる軍勢に大友軍は呑まれて行き、勝負は決した。
「今は勝てた。だけど、孤立した私達はこれからどうなるのか・・・・」
志摩子の憂鬱は小笠原家の現状である。この勝利でも島津・龍造寺・大友との敵対と言う四面楚歌の状況が続くのだ。
前途の危うさに戦勝も霞んでいた。
それはプレイをする本人も不安で堪らないのである(笑)
(続く?かもしれない)