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架空戦記小説と軍事の記事を中心にしたブログです
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ATX実況スレで知り合った25苺さんに会いにコミケ2日目の有明に向かう。
2日目のコミケも人は多いが3日目と比べると格段にスムーズに入れる。そして25苺さんと会い、そのサークルが出している同人誌を購入。アイスホッケーとサッカーの各試合をまとめた本でした。

そして、今回の旅の大きな目的であるATX実況スレのオフ会へ向かう。
12時に秋葉原駅電気街改札口の側にあるコンビニで待ち合わせだが、遅れるので幹事の腐女子部部長さんに連絡。するとメイド喫茶で待っているとのこと。
13時前に秋葉原に到着。毎週壱号○さんが出迎える。毎週さんの案内で秋葉原のメインストリートから外れた所へ。そこにあるメイド喫茶「Mailish」へ入る。初めてのメイド喫茶だ。
そこで腐女子部部長さん・プリムラさん・BlueBloodさんと合流。ここに2ちゃんねるの掲示板ではお馴染みだが、初顔合わせとなった。最初は人見知りである俺にとっては落ち着かない感じではあったが、皆さん和やかな方ばかりなので掲示板同様に馴染む。
プリムラさんに俺が小学校の時に貰った蒸気機関車の写真をプレゼントした。軍オタとなった今では写真に写る車輌をどんな物か分からない。鉄オタでその価値が分かるプリムラさんにこそ持つべきだと思ったからだ。
さて、メニューを注文してメイド喫茶を堪能してみる。視界に白いフリルで黒のドレスというメイド姿のお姉さんが横切る。あ~良いねえ~、眼鏡をかけた方も居るし最高じゃないかw
やはりメイドさんは癒されるわい。
昼食と挨拶を兼ねたメイド喫茶体験は終わり。プリムラさんの提案で鉄道グッズの店に。そこで鉄道模型に惹かれる。次いで俺の希望で「武器屋」に。店内は異常な密集度。ここで模造品だが刀を持たせてもらう。片手で持てない重さだ。店内にある刀や鎧は結構なお値段。買えないのが残念。
それから一行は歩いて神保町に。プリムラさんの案内でそこにあるミリタリーもの専門の模型店に。完成品の精度の高さも驚いたが、ティーガーⅡのマズルブレーキやパンターのキャタピラの現物がある。どれも錆び付いているがかなりの貴重品だ!欲しいと思うが武器屋の商品以上の結構なお値段・・・。代わりに空母「葛城」のウォーターラインシリーズのプラモに。M2ブラッドレーやBT7・T26戦車にドイツ兵員輸送車の模型を買う。
そして、御茶ノ水のカラオケ屋パセラへ。
毎週さんの熟知した歌い方(どの辺りにサビを入れるかタイミングをよく知っておられる)また部長さんもなかなかの美声に驚いた。前日から風邪だと聞いていたけど、それが分からない歌いぶりだ。
だが、その美声以上に「それでもエロい事はダメ」(アニメ「sola」より)が今も頭に残るw
この時に名無しさん?2BP(1)さんに、毎週さんの知人の方も合流。7人のカラオケとなった。
ちなみに、俺が歌ったのは「パンプキン・シザーズ」OP、「撲殺天使どくろちゃん」OP「アイドルマスター」OP「苺ましまろ」OP「瀬戸の花嫁」挿入歌の演歌。「十二国記」ED「ぱにぽにだっしゅ」のOPなどを歌いました。
この間、ビールの中ジョッキ3杯にリンゴサワー1杯を飲む。こんな時の酒は一番美味い!
カラオケが終わり、一同は秋葉原駅まで歩く。そこで再開を願いつつオフ会はお開きになった。
俺は、友人YとAが既に有明で徹夜の行列に参加しているので部長さん宅に泊めて貰う。ここで缶ビール1本飲みつつATXで放送していた「ひぐらしのなくころに解」を見る。(また実況もしたw)
また、部長さん宅では釘宮理恵さんや山本麻里亜さん那須めぐみさんが出演してるDVDを見る。SFちっくな内容のドラマだ。このDVDを見ると釘宮さんが凄く可愛いと思えた(それまで顔出してるのは映像で見た事無かったから尚更)
「ひぐらし」を見終わり、スカパーチャンネルを色々回してたら「キューブ2」なる洋画が気になって、結構面白いから部長さんと2人で見る。
時間は19日午前3時を回っていた。寝なければ。
部長さんが布団を用意してくれて、とてもありがたかった。

翌朝。部長さん宅を後にして有明に向かう。コミケ3日目があるからだ。
酷暑を並び、1時間ほどで会場へ。今回はミリタリーものの同人誌もあるからかなり満足できた。
今回は2ちゃんねるの実況で知り合ったA実況組@DVDさんが参加しているので会いに行く。
ウルトラマンAや戦前の架空戦記という珍しく面白い本を出していた。
企業ブースも周り、18禁な同人誌も買い込み先行していた友人YとAと合流。Aの鞄は友人からの頼まれた物もあってかなりの重量になっていた(後日、肩にアザが出来たという)
豊洲からゆりかもめに乗って新橋に向かい。そこの吉野家で夕食を取り、バスの時間の関係で友人Aと分かれる。俺も友人Yの部屋に置いた荷物を取りに行ってからバスに乗る町田市に向かう。
山手線で新宿に向かい。そこから町田市まで小田急に乗り換える。
にしても、小田急は「特急」や「準急」とあって、どの駅に止まるか初心者には分かり難いものだ。
そして21時。バスで東京を後にした。
翌朝6時30分に東広島市に到着し、1時間歩いてアパートに帰って半ば体力勝負のこの旅は終わった。
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横須賀を後にして、品川駅でロッカーから荷物を取る。
そこから友人Y宅のある西馬込に向かおうとしたが、携帯電話のメールで「仕事がまだ終わらない」との事。
時間を潰すために秋葉原へ。ラジオ館の模型屋で物色する。
1/144のフォッケウルフ戦闘機と架空戦記シリーズのⅣ号駆逐戦車に、バズーカ名鑑のパンツァーシュルックを買った。
そうしてる内に友人Yからメール「20時半までに田町駅に来て」との事。すぐさま山手線で向かう。
しかし、予定より30分以上も早く着き友人Yも仕事を早く切り上げて俺を迎えに来てくれた。なんとも申し訳ない。
それからYと「大戸屋」で晩飯を食い、近所の本屋でYが「マキバオー」続編の単行本を買う。いつの間にか続編があった事に驚いたw
そして西馬込にあるYの住んでるアパートの部屋へ。
俺の部屋と似て酷い有様だと去年と同じ感想を持ちながら入る。クーラーの涼しさがなんとも心地良い。
何のいきさつか、Yが持ってるサクラ大戦Ⅴ出演の声優が出る「サクラ大戦 紐育レビュウショウ」のDVDを見る。これはサクラ大戦出演の声優が舞台に立ち、ドラマや歌や踊りありと言うミュージカルである。これは最初のサクラ大戦のメンバーから続くもので、Yは何度も講演を見に行っている。ひとえに熱いサクラ大戦ファンなのである。(俺もサクラ大戦は好きだ)
サクラ大戦Vのメンバーには俺が最近好きになった声優の皆川純子さんが出ている。演じる役はアフリカ系アメリカ人の弁護士。なので格好は黒のスーツ。おお!流石はアニキだ!なんて思ってしまうほどに決まっているのだ(笑)
ミュージカルなので間に歌が入る。中でも内田直哉は輝いて見えた。ノリノリの歌も日舞をしながらの歌も何でもこなしている。洋画の吹き替えではブルース・ウイリス役で有名な内田さんの凄い一面を見れて面白いものだ。
そうこうしている内に時間は18日午前2時になっていた。寝なければ。

翌朝。東京に親戚が居る友人AがYの所に来ると言うのでYと共に迎えに行く。外は曇りで前日とは違い涼しいものだ。
Aと合流し、コンビニで朝飯を買ってYの部屋に戻る。3人で居るには狭いと一同同じ感想を抱く(笑)
俺は朝飯を食い、歯磨きをして先に出かける準備をする。まずは2日目のコミケ会場に向かい2ちゃんねるATX実況スレでの知り合った25苺さんの所へ向かい、それからATX実況スレのオフ会へと向かうのだ。

2007年8月16日午後7時50分。広島駅新幹線口から高速バスで東京に向けて出発した。これが東京旅行の始まりだ。
本当は前回と同じく三原駅発新宿着の高速バスにしようとしたが、電話予約で「座席が無いですね。ですが町田に着くのならありますよ」と言われ、それで予約した。
町田。今年起きた暴力団構成員がアパートに立て籠もった事件の現場となった町でしかしらない土地だ。

バスの揺れと不意打ちの車内点灯で良くない寝起き状態で町田に到着。
ここで少しスケジュールが狂う。荷物を港区に住む友人Y宅で預けようとしたが。「来るなら8時まで」と言われていた。しかし、到着は7時15分。町田から友人Y宅まで1時間以上もの時間が必要だから8時までは無理だ。かといって出勤する友人Yを待たせる訳にいかない。
ここで新たなスケジュールを路線図眺めながら決めた。
町田の駅では共産党の演説という(9条を守らないといけないと言っていた)出迎えを受ける。
まずは、小田急線で生田駅に向かい。そこから少し歩いて明治大学内にある旧陸軍登戸研究所を外から眺める。
次いで生田から登戸まで小田急で向かい、そこから南武線で武蔵溝ノ口から田園都市線溝の口駅で乗り替え、双子玉川へ。そこで「フタコイ オルタナティブ」の世界を堪能(?)する。
まずは生田へ。目的の登戸研究所は1937年に登戸実験場をはじめに、登戸出張所を経て1942年には第9研究所と名称を変え、規模は拡大した。この研究所では日中戦争の為にニセ紙幣を製造して国民党政府の経済を崩壊させる謀略の道具に太平洋戦争末期では風船爆弾の開発も行っていた。また、戦後の帝銀事件で使われた毒薬が登戸研究所で作られた物だとも言われており、秘密の多い陸軍の部署であった。
いきなり見に行く事にしたが、明治大学構内にいきなり入る訳にはいかない。ので外から眺める。木や草が茂り構内を伺えるものでは無かったが、これが当時と同じなら防諜の役割にはなったかもしれない。
次いで双子玉川へ。田園都市線の車窓から多摩川を見ると河川敷の風景はまさに「フタコイ」の世界だ。そして双子多摩川駅を下りる。
駅前は。デパートやビルが並んでる。少し町の奥へ行くと「フタコイ」の世界に近い雰囲気の町並みに。けど、美少女双子を見る事は無かった。綺麗なお姉さんならよく見れたが(笑)
双子多摩川から大井線で大井駅まで。そこから東海道線で品川駅へ。そこのロッカーで荷物を置く。
出発前に。某掲示板仲間のプリムラさんから「品川駅から京浜急行に乗ると大原さやかのアナウンスが聞けますよ」と教えて貰う。しかし、間違って京浜東北線で大船駅まで行く。
大原さやかは「うたわれるもの」のウルトリィや「xxxHOLiC」の壱原侑子など年上お姉さんの役が多い声優だ。楽しみにしていただけに悔やまれる。
大船でソバを食ってから横須賀線で横須賀へ。
横須賀駅の直前で海自の基地が眼前に広がる。「たかなみ」級や「しらね」級が出迎える。駅前の風景を見てアニメ「スカイガールズ」で桜野音羽と園宮可憐がひっやくり男を倒す場面を思い出す。
ヴェルニ公園から横須賀の海自艦艇と、初めて見る米軍艦艇を見る。
タイコンデロガ級巡洋艦やアーレイバーグ級駆逐艦が補修作業の様で。SPYレーダーは緑のシートで覆われ、各所には作業用の足場がある。また、ミサイル追跡の艦艇らしきものも1隻あった。
歩いて三笠公園へ。東郷平八郎像と記念艦「三笠」が眼前に広がる。記念艦「三笠」は日露戦争で連合艦隊旗艦となった戦艦で。1925年(大正14年)に記念艦となった。
艦橋の一番上を行く。高所恐怖症の俺もなんとか登る。そこから東郷が見たであろう1905年(明治38年)5月27日の光景に思いを馳せる。煤煙連ねるロシアバルチク艦隊を睨み、4600mまで反撃を堪える。それを天井の無い高台でしていた東郷。相当の心労があったに違いないと思われる。
甲板を歩き回ると副砲の多さに驚く。艦の側面に艦橋と、配置可能な所はどこでも副砲がある。(15センチから47ミリの各砲合わせて40門!)その副砲も天井付きで壁もあるが、後ろは開けている所や、密室の所もある。ここで砲撃の轟音に振動。更に熱を帯びた砲からの熱で操作する将兵は汗だくになりつつ迅速に作業するのだ。それを考えると過酷な環境である。
それと打って変わって艦内後部にある士官の部屋は豪華だ。艦長や長官に幕僚・機関長の部屋はカーテン付きのベッドに木の棚が置かれた簡素に見えるが軍艦にしては豪華である。公務室と呼ばれる作戦会議等を行う部屋はホテルやレストランか?と思える豪華さだ。(そこには副砲が隅にあった)旧帝国海軍はイギリスに習い「三笠」はイギリスで作られた。この頃の海軍はまだイギリス流が色濃いようである。
また、艦内の資料室には「天気晴朗なれども波高し」の無電を受けて紙に書き留められた通信用の用紙に、東郷の軍服が展示してある中で俺を含めた来客の方々が注目を浴びたのは、日本海海戦の動くジオラマだ。センサーで人が居るのを確認すると装置が動き、説明のアナウンスが始まり日露の艦隊の模型が数珠繋ぎで進む。結構仕掛けが細かく砲戦の段になると模型の豆電球が光って発砲を演じ、海面からは水柱を模したモノが飛び出す。見ていてなかなかに面白いものでした。
それに艦内にはその部署で亡くなった将兵の名がプレートで書かれて貼り付けられている。この「三笠」が歴史の中にあるなによりの証拠と言える。
「三笠」の次は、猿島だ。「三笠」の横には猿島行きの船着き場ある。
猿島は幕末に3門の砲が置かれるのを始めに、要塞としての生涯を歩む。明治17年からは近代的な要塞の工事が始まり、東京湾防衛の1拠点となった。太平洋戦争末期は砲台を高射砲に変えて対空の要塞となり終戦を迎えた。
そして現在は、観光のビーチとして賑わっていた。猿島に着くと自分が場違いな所に来たのでは?と錯覚するアウトドアな光景だ。それを横目に山へ向かう。波止場から「海軍港」の碑があり、山道の始まりの所には当時のモノであろうコンクリート製の建物がある。山の中を進むと赤い煉瓦の壁が現れる。空を隠す木の茂りもあって涼しげな風景だ。奥に行くと煉瓦のトンネル、更に上を登ると3カ所の砲台跡(コンクリートの基礎だけ)が。海軍の要塞であったから高角砲が据えてあったのかもしれない。
最後に山の頂上にある元観測所の建物を見て下山。波止場へ。この時までに慣れない山登りで身体はヘトヘトになっていた。だが、これから横須賀線・京浜東北線・山手線と乗り替えて行き、友人Yと合流するのであった。
今日の夜。高速バスで東京に行きます。
17日に到着して横須賀。戦艦三笠や猿島(要塞の跡)を見学する。
18日には2ちゃんねるのATX実況スレの皆さんとオフ会して、(徹夜カラオケのようだw)
翌日のコミケ3日目に行ってくるよ~
昭和20年6月22日。天皇が終戦に向けて動き出した。

昭和19年には近衛文麿と岡田啓介は戦力を大幅に減らす決戦を行えば軍も国民も納得するだろうと考えていた。2人は海軍にそれを当てはめて考えていた。
だが、問題は陸軍であった。太平洋戦争では最大で1個師団ごとの戦いしかしなかった為に「何十万の兵力で戦う決戦をしてない」という認識があった。フィリピン・ルソン島では28万名以上の兵力で昭和20年1月の米軍上陸を迎え撃つが、激しい抵抗の末にルソン島の山岳地帯に追い込まれる。
沖縄戦でも2個師団を中心に10万名で迎え撃つが2ヶ月後には組織的な抵抗は不可能となった。
米軍の圧倒的な陸海空の戦力に敗退しても陸軍は徹底抗戦を強硬に訴えた。
だが、そんな陸軍も勢いを失う兆候があった。
「陸軍は此の戦局に自信を失って来て居ると見て居る。夫れは陸軍はソ連の出方を非常に恐れて、(一)中立条約を延長し、(二)和平斡旋を依頼し、(三)大東亜戦争の終結を望んで居る。その意味はこの戦争に自信がなくなっている為と想像するが併し口に出して云わぬ。特に梅津(陸軍参謀総長)は判然して居らぬ」
(「米内光政海相口述覚書」昭和20年5月14日)
5月7日にドイツが降伏した為に米英と戦うのは日本だけとなり、ほぼ孤立無援となった状況に陸軍が自信を失ったようだと米内光政海軍大臣は感想を抱いたようだ。けれども、口からは本土決戦を声高に叫んでいた。
しかしながら陸軍では内部崩壊に近い状況が起きている事は実感していた。7月25日。軍紀・風紀を主題に方面軍参謀副長と兵務担当参謀とで会合が行われた。ここで「軍紀逐次弛緩。離隊逃亡が違反行為の6割」・「離隊の原因は食糧不足」・「特攻隊員の悪質犯罪」・「物欲色欲に起因する犯罪が多発」と報告された。これは日本本土にある部隊の将兵についての報告であり、陸軍が望む本土決戦を行う部隊は軍隊としての機能を失いかけていた。
とはいえ。陸軍が本土決戦を諦めて米英との講話をすべきと口にはしなかった。代わりにソ連を仲介しての終戦ならば望んだ。

その対ソ交渉は成功の見込み無く行われた。箱根で元首相の広田弘毅が駐日ソ連大使ヤコブ・マリクと私的に会うと装い対面するが、マリクは広田がソ連の動向を探りに来た事を見抜き広田は何も得る事無く会談は終わる。
また、ソ連も4月5日に翌年で期限が切れる日ソ不可侵条約の破棄を通告。日本政府は条約の延長と和平工作の依頼をソ連に行おうとした。また特使として近衛文麿をもモスクワに送るとスターリンに申し出ようとした。だが、この交渉をする駐ソ大使佐藤尚武はソ連が日本とアメリカの仲介をするのは有り得ない事だと知っていて逆に東京へ早期終戦をすべきだと意見を伝えた。
対ソ交渉は初めから成功の見込み無しではあったが、前にも書いた通り。米英を交渉に呼び込むブラフとしてソ連への接近を装ったのでは?と思う。
そうなると、陸軍も遠回りに米英との戦争終結を望んでいたと言う事でもあるのかもしれない。

7月16日。アメリカは原爆実験を成功させて原子爆弾の保有国となった。
7月26日。連合国はポツダム宣言を発表。
日本は追い詰められた。アメリカの原爆については知らなくても日本を連合国が占領と書かれたポツダム宣言。東郷茂徳外務大臣は当面は意思表示するべきではないと言う原則を出したが、軍の強硬派の圧力から鈴木貫太郎首相は7月28日に記者団にこうポツダム宣言について意見を述べた。
「私は三国声明(ポツダム宣言の事)はカイロ宣言の焼き直しと思う。何ら重大な価値があるものとは思えない。ただ黙殺するのみである。われわれは断乎戦争完遂に邁進するのみである」
(「朝日新聞」昭和20年7月30日付け)
ここで終戦の問題でよく取り上げられる「黙殺」という言葉が出た。
だが、鈴木首相は戦後の回想「終戦の表情」で「この宣言は重視する要なきものと思う」と7月28日に記者団に述べたと書かれている。つまり、鈴木から「黙殺」の言葉は出なかったのだ。
では、何故に「黙殺する」と言ったと新聞は書いたか?それは7月27日に内閣書記官長(今の官房長官)迫水久常が記者団との懇談会で
「日本政府としては受諾するといった態度がとれない重要視しないというか、ネグレクトする方向でいくことになるだろう」
と語る。この「ネグレクト」の意味で記者団から「黙殺か?」と聞かれると。
「黙殺?ネグレクトは黙殺ともいえるかなあ」
とやり取りがあった。また迫水は「大きく新聞のトップか何かで『ポツダム宣言黙殺!』っていうように扱かわんでくれ」とも言った。
迫水の意向を了承して朝日新聞7月28日付けでは2段見出して6行の記事で「帝国政府としては何ら重大なる価値のあるものに非ずとしてこれを黙殺すると共に、断乎戦争完遂に邁進するのみである」と書いた。
つまり、黙殺とはっきり言ったのは迫水であり、鈴木では無かった。だが政府としては受諾する方向ではないと言う意志表明では同じだった。当時のマスコミも鈴木が迫水と同じ意見であったから「黙殺」と述べたと書かれた。
けれどもこの「黙殺する」は日本の同盟通信社が「ignore(無視する、知らないふりをする)」の意味で海外に報じた。アメリカのAP通信やイギリスのロイター通信は「ignore」を「reject(拒否)」と言い換えて報じた。連合国は日本の黙殺を「ポツダム宣言拒否」と解釈した。
しかし、アメリカは7月25日。ポツダム宣言発表前にトルーマン大統領が原爆投下を命令していた。また、ソ連も日本が和平仲介や日ソ不可侵条約延長を頼んでも2月のヤルタ会談で対日参戦を決めていた。
日本への新たな打撃を与える戦略は日本の意向に関わらず動き出していた。

8月6日。広島市に原爆投下
8月9日。長崎市に原爆投下、ソ連対日参戦
9日。最高戦争指導会議では、この新たに悪化した局面にポツダム宣言受諾で閣僚の意志は固まろうとしたが戦後の天皇の扱いで暗礁に乗り上げた。ここにジョゼフ・グルーがポツダム宣言に盛り込もうとした「天皇制の保証」を削除した事が響いていた。
また、陸軍大臣阿南惟幾は戦犯処罰等に条件を付け
「ソロバンずくでは勝算のメドはないが、大和民族の名誉のため戦いつづけるうちは何らかのチャンスはある」
と徹底抗戦の主張を改めて言い、東郷外務大臣の「国体護持のみを条件に降伏の意見と衝突した。
この時、陸軍では政府の動きを読んでいて、阿南が陸軍省に居るとクーデターを起こしてでも戦争継続をすべきと迫る強硬派将校の圧力を受けていた。彼らを抑える為には「陸軍としては戦争継続を望む」という立場を貫く必要があった。だからポツダム宣言受諾を決断する直前まで阿南は異常とも言える程に閣議で徹底抗戦を訴えたのだ。
9日午後11時50分から開かれた御前会議。ここで結論が出ない事から鈴木首相は天皇に決断を仰いだ。
「私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理だと考える」
と戦争継続の意志は無いと表明した。
「陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領というようなことはまことに堪え難いことで、その心持は私にはよくわかる。しかし自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい」
「この際私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前にも立つ」
と軍への理解を示しつつ、終戦の為ならば出来る事があればするとも言った。
これがポツダム宣言受諾の「御聖断」である。時に昭和20年8月10日未明の事である。
外務大臣原案(国体護持を条件としたポツダム宣言受諾)で降伏と決まり、中立国経由でアメリカに伝えられた。
アメリカはグルーや米海軍は戦後統治を円滑にするためには天皇の存在は必要と考え日本の条件には賛成だった。しかし、バーンズ国務長官は
「誰が天皇になっても天皇制が残ればいいんだろ」
と海軍長官フォレスタルに語った。そのバーンズはポツダム宣言に変更をしない事で遠回しに「天皇制を認める」意志表明を日本に回答した。
この不透明なバーンズの回答に日本では再び混乱が起きる。「天皇を連合国軍の制限下の置く」とする箇所の「subject to」を陸軍は「従属する」と解釈して国体護持はできないと不満を表した。また大西滝治郎海軍軍令部次長が「今後二千万の日本人を殺す覚悟で特攻として用うれば決して負けはせぬ」と外務大臣・陸軍参謀長・海軍軍令部総長が会見中に乗り込んでそう意見する場面があったりと不穏な空気が流れた。
だが、8月14日の御前会議で天皇は
「わたくし自身はいかにんろうとも、国民の生命を助けたいと思う」
と改めて降伏の聖断をした。これによって日本の降伏は決定された。
だが、14日深夜には皇居を守る陸軍近衛師団が決起した。天皇が全軍・全国民に降伏したとラジオで伝えるレコード「玉音盤」を奪い終戦への流れを変えようとした。また、陸軍横浜警備隊は首相官邸や鈴木首相の自宅を襲った。だが、これらの反乱は朝までに治まった。
8月15日正午。前夜の嵐を乗り越えて玉音盤から流れる天皇の声が全国や海外の占領地域に飛ぶ。

水面下の工作を含めると昭和19年から1年以上の月日の末に降伏して終戦の決断ができた。
日本においては軍部をいかに納得させて降伏させるかが鍵となり終戦の決断をする時期を見極められなかった。
アメリカは日本に妥協する和平があるもののハードピースの路線で戦略は進んだ。

タイトルの「終戦に原爆は必要か」の結論を出すならばあえて「必要無い」と言おう。御前会議の決定が原爆投下後にしても、アメリカは日本がどうすれば和平に応じるかを知っていたし、日本も現場だけの活動ではあるが米英との和平交渉の窓口があった。原爆投下以外の和平に繋がる選択肢がある以上は「原爆投下以外の和平の可能性はあった」と今回は締め括りたい。
原爆投下でこそ終戦が出来たと言うには今も尚原爆投下で受けた後遺症で苦しむ人々の上に平和があると考えると心が痛むからだ。

参考文献とサイト
「歴史群像2005年8月号」
「月刊歴史街道2005年9月号」
「日本海軍の終戦工作~アジア太平洋戦争の再検証~」纐纈厚著 中公新書
「太平洋戦争の意外なウラ事情~真珠湾攻撃から戦艦「大和」の特攻まで~」太平洋戦争研究会 PHP文庫
日瑞関係のページ  http://www.saturn.dti.ne.jp/~ohori/sub15.htm
たむ・たむ(多夢・太夢)のページhttp://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/IRIGUTI.htm
Wikipediahttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
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