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架空戦記小説と軍事の記事を中心にしたブログです
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日本時間で昨日の午後11時20分ぐらい。コソボ自治州はコソボ共和国としてセルビアより独立を宣言した。
スカパーで放送していたBBCのコソボ議会生中継を見ていたが、歴史の1ページに立ち会って感動もしたが、彼らの前途を思うと手放しで喜ぶ場面でもない。
それは、コソボが独立する理由となったバルカン半島の民族問題があるからだ。
コソボの主な民族であるアルバニア人は紀元前100年から現在のコソボに暮らし始めた。1389年にはオスマン帝国がセルビア王国とコソボで戦う。このコソボの戦いはオスマン帝国の勝利に終わり、ドナウ川以南のセルビア・マケドニア・ブルガリアをオスマン帝国が支配する事になる。
このコソボの戦いで、セルビア人はコソボを「聖地」と言う意識が芽生えた。オスマント帝国に奪われた土地としてセルビア人が譲れない土地となったのだ。
また、オスマン帝国の支配はコソボに住むアルバニア人に民族意識を芽生えさせた。
1912年~1913年の第1次バルカン戦争でコソボは新たに独立したアルバニアの領土になろうとしていたが、戦後の国境画定でセルビアの領土に組み込まれた。600年もの雪辱をセルビアは果たしたが、コソボのアルバニア人はこれに不満を持ち、第二次世界大戦後から独立運動が始まった。ユーゴスラビア(1929年にセルビアを中心に南スラブ人の統一思想、汎スラブ主義を掲げて王国・連邦と国名と変えつつ6カ国を構成国としていた)は1946年には現在のコソボを自治区とした。それから独立運動は本格化、1968年のアルバニア人の自治権拡大を求める暴動が発生。1974年にはユーゴスラビアは憲法改正と共に自治区を自治州として昇格させたが、アルバニア人は更に自治権拡大を望んでいた。
だが、コソボを聖地と思っているセルビア人はこのアルバニア人の行動に不満を募らせていた。

1990年にはコソボの自治権剥奪からアルバニア人議員によってコソボ共和国として独立。アルバニアしかコソボ独立を支持しなかった。それでもコソボの指導者ルコバは平和的な独立を望み、スロベニアなどの独立もあってユーゴスラビア政府の対応は独立を認めないとしつつも、無視同然だった。
だが、ルコバとは違い強硬派のアルバニア人はコソボ解放軍を結成してコソボ内のセルビア人へのテロ活動を開始。この時のユーゴスラビア大統領ミロシェビチが1998年に軍を投入してコソボ解放軍を鎮圧しようとした。この時に1万人のアルバニア人が虐殺されたとされ、1999年にはNATOがコソボ紛争に介入する。
2000年にはユーゴスラビア軍がコソボより撤退。コソボは国連の暫定行政を受けつつも形はセルビアに属する自治州であった。だが、内実はセルビアとは独立したものとなっていた。

そして、2008年2月17日。コソボは独立した。
1990年とは違い、独立支持はEU諸国にアメリカ(日本も支持する構え)が支持している。だが、セルビアとロシアが反対している。ロシアはチェチェンや南オセチア自治州などコーカサス地方での民族紛争が再燃して激化するのを恐れての反対かもしれない。コソボ独立承認はコーカサスの民族紛争に火を注ぎロシアが巻き込まれる可能性がある。国家的なリスクを回避する為の反対であるとも思える。
セルビアは独立を認めていないが、今だ国連軍が駐留するコソボに軍事行動は出来ないだろう。それに国連軍が居なくても、1999年のNATO介入を見ればセルビアがすぐに窮地に立つのは目に見えている。下手をすれば国連かアメリカに制裁措置を取られて国家の危機を招く事になる。
それでも、セルビアの国民は黙ってはいないだろう。アメリカ大使館への過激な抗議を見ればコソボ問題でセルビア国内が動乱の時を迎えそうだ。これからはコソボに強攻に出よと迫る国民と現実問題の狭間でアルバニア政府は苦しい立場になるに違いない。コソボ問題で一番苦しむのはセルビア政府だろうと思う。
また、コソボ国内でもセルビア人住民がテロ活動をする可能性もある。これが新たな火種となって再び「欧州の火薬庫」に火が付くかもしれない。
コソボの安定した未来は少し遠いだろう・・・。

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バレンタイン戦車

今日はバレンタインデーという日らしい。
なので、画像は第2次世界大戦のイギリス軍戦車バレンタインである。
この戦車の名前の由来。バレンタインデーの2月14日に設計を陸軍省に提出したからとか、戦車開発に関係したジョン・バレンタイン・ハーデン伯からとか諸説ある。
だが、1940年のダンケルク撤退以後のイギリス陸軍にとっては有力な新型戦車として北アフリカやビルマでも戦い、ソ連にも供与された。(ソ連では評判が良かったそうな)
1944年のノルマンディー上陸作戦になると第一線からリタイアした戦車だが、イギリスの窮地を支えた兵器の1つと言える。
そんなバレンタイン戦車を讃えるのが今日のバレンタインデーである。
バレンタイン戦車だけで無く、マチルダ・クルセーダー・クロムウエル・チャーチル・ファイヤフライ・センチュリオン・チャレンジャーと言った歴代の戦車はもちろん、戦車の始祖であるマークⅠをも全て讃える日なのだ。
チョコを噛み締め戦場の配給だと思い、ジョンブル達の不退転な戦車達を思う。なんと良い日だろうか。
これなら九七式中戦車チハを讃える「チハデー」もあって良いに違いない。

はい、嘘です(笑)

今日は姉からチョコ貰った。そして、コンビニの店員さん(女性)からも貰った。(コンビニはキャンペーンだからだろう)
俺と店員さんしか店内に居ないせいか、店員のお姉さんは両手で丁寧に渡してくれたのがなんとも嬉しい。このチョコの味は一際上手かった。(あくまでキャンペーンだと分かっていても凄く嬉しかったんだよ)

TKX 3

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080213/plc0802131146007-n1.htm
(産経ニュース)
http://jp.youtube.com/watch?v=5YtxAhAziFc
(NHKのニュース)

13日神奈川県相模原市にある防衛省技術研究本部陸上装備研究所で2010年に配備される予定の新戦車(TKX)の試作車両が公開された。
写真や動画を見るとフランスのルクレール戦車に似たものに見えた。
さて、このTKXはどんな性能なのだろうか?
平成13年度防衛白書で書かれたTKXの内容は。
・重量40トン(今回の試作車両で44トン)
・主要火器は120ミリ戦車砲
・エンジンは1200hpディーゼルエンジン
・C4I(指揮・通信・統制・コンピューター・情報)システムの付加
・低運用費・低製造コスト
・将来改善能力(P3I)の付与
これに現れるのは攻撃力・機動力(防御力も)90式戦車と同程度にする事を目標にしている。
だが、TKXの革新性は90式戦車よりも10トンも軽い40トンに重量の目標がある事だろう。これは戦闘重量(弾薬・燃料満タンの状態)も含めてなのかは不明だが、そうで無くてもかなり軽いものだ。
こうなった背景には、90式の50トンでは北海道以外では使えないとするものだとされている。TKXは北海道以南での使用を主眼に置いた物だから、40トンクラスにされているらしい。
もっとも、国防とは無縁で道路建設が進んだ結果を見ると50トンの90式が通行できる道路がどれだけあるか心許ない。だが74式にいつまでも頼れない、だからTKX必要となった訳だ。
アメリカのM1A2エイブラムズで63トン。フランスのルクレールで54トン。ドイツのレオパルトⅡA6は62.5トン。と欧米の現代の戦車はどれも54トンから63トンの重さだが、ロシアのT90で46.5トンになる。
もっとも、重量が重いのはレオパルトⅡA6の場合はは120ミリ砲を44口径から55口径に換えた事と前面の装甲強化で重量が59トンから62.5トンに増えたように、改造や装備の換装による所もあったからだ。
TKXでは、火砲も防御力も90式と同じでは装甲をどう軽いものにするかが鍵となるだろう。
装甲はモジュール装甲で、外見がボルト留めなのも破損箇所を取り替えやすい為のものよなっている。果たしてこれが重量44トンに抑えた秘訣となったのだろうか?
次の革新性はC4Iシステム付加だ。TKXの内部には端末のディスプレイが装備されて、米軍のM1A2SEPやレオパルトⅡA6と同じく自衛隊の戦車も高いネットワーク能力を持ったと言える。
陸上自衛隊ではReCSと呼ばれる基幹連隊指揮統制システムを使って演習が行われている。これはパソコンの端末に所属部隊の位置と発見した敵の位置その地域の地形が表示されて一目瞭然となる。これにより状況把握の簡略化が出来て同じ情報を各部隊で共有出来るシステムでもある。これに対応できるのが今回のTKXなのである。TKXは新しいネットワーク化された陸上自衛隊の新たな兵器でもある。
値段は7億円とされ、90式のように10億円を越えるものでは無い。けれども年間の調達数が果たして二桁を越えるかは大いに怪しいところだ。

1202888509616.jpg





(油圧サスペンションで右に傾くTKX。これは陸自戦車に系譜される能力なのだろうか)
果たして、TKX(2010年配備予定だから10式戦車?)は何処に配備されるか?
試験や運用の研究に静岡県御殿場の富士教導団や、機甲教育隊は当たり前として、何処で先に配備されるか?
前にも書いたが、北海道以南での運用を考えての製作だとしたら九州が一番可能性が高いだろう。西方重視という事もあるが、第4と第8戦車大隊が駐屯する大分県玖珠駐屯地から伸びる道路には74式戦車が自走して通れる特製の道路がある。これは最寄りに日出生台演習場があるからだ。
平時の運用面で障害のなるべく少ないこの地に配備されるものだと考える。部隊は第4師団所属の第4戦車大隊だろうか。第4師団は西方重視に陸自が方針転換すると重要視されるようになった師団だ。それは朝鮮半島に近く、また都市と工業地帯が集中する九州北部を担当している事もその訳だろう。
第4師団には他の師団や旅団には無い唯一の96式多目的誘導弾を装備した第4対舟艇対戦車隊があり、特科連隊も現役部隊で16個中隊を擁するなど強力なものとなっている。だから第4戦車大隊が有力だと考える。
まずは再来年。一般で見られる日が待ち遠しいものである。

明治時代の帝政ロシアは不凍港を求めて南下政策を行っていた。
ヨーロッパと陸で繋がっていたロシアではあったが、海上交易による莫大な利益の窓口として冬季に氷で塞がらない港を欲していた。
露土戦争(1768年 - 1774年)でオスマントルコ帝国からクリミア半島を割譲。黒海の窓口を得る。19世紀にはコーカサス地方を併合し西の南下政策は進んだ。
そして東での南下政策。幕末に樺太・千島を日露の国境とした。明治になると千島を日本・樺太をロシアと交換する条約を締結。1860年に清国とは太平天国の乱で結ばれた北京条約でアムール川(黒竜江)の以北、ウムール川の以東の外満州を割譲。1900年の北清事変では日本や欧米列強の出兵に協力するのを機会に満州全土を占領した。これに日英が危機感を抱いて日英同盟が結ばれる事となる。
日英同盟の圧力でロシアは満州から撤兵すると約束したが、期限が過ぎても全部隊の撤兵せず日露の危機感を煽り日本は特に保護国としていた朝鮮と満州が接する緑鴨江朝鮮側河口の付近でロシアが大規模な森林事業を展開。日本の権益を脅かす形となり日本の世論はロシアと戦うべしと言う気運が強くなった。政府内は開戦と和平で割れていたが、ロシアの皇帝ニコライ2世が主戦論に同調。ここに日露は妥協点を失い1904年(明治37年)2月6日に日本政府はロシアへ国交断絶を通告。日露戦争が始まるのである。

日露戦争での第一撃は日本軍であった。
国交断絶から3日目の2月9日。日本海軍の第一駆逐隊(白雲・朝潮・霞・暁)第2駆逐隊(雷・電・朧)第3駆逐隊(薄雲・東雲・漣)の駆逐艦10隻が深夜の闇の中で遼東半島の旅順へと向かっていた。
遼東半島は日露戦争で一時は日本が占領していたが、戦後の三国干渉で日本から取り上げた。れからロシアが清国より租借し、旅順に軍港を置いて艦隊を配置していた。
日本軍は開戦初日で旅順のロシア艦隊に大打撃を与えようとしていた。その一番槍が駆逐艦に与えられたのである。
2月9日午前0時28分。旅順港の外に停泊するロシア艦隊へまず「白雲」が魚雷を発射。残る9隻も続けて発射した。(数は手元の資料では発射数が20本か16本と食い違う)
命中は3本。戦艦「レトヴィザン」・「ツェザレウィッチ」巡洋艦「パルラーダ」が大破した。
旅順への攻撃は続き、昼近くに東郷平八郎連合艦隊司令長官率いる連合艦隊主力が旅順沖に現れた。
11時45分。開戦命令を告げる信号旗が旗艦「三笠」のマストに上がり「勝敗の決、この一戦にあり。各員努力せよ」と激励した。
午後12時9分。連合艦隊第一戦隊は砲撃開始。ロシア艦隊も応戦、これに旅順の砲台も援護に加わる。
砲撃戦は30分続いたが、撃沈された艦は両軍共に無く、損害も大きなものは無く終わった。
開戦初日である程度の損害を旅順のロシア艦隊に与えた日本海軍であったが、これ以後ロシア艦隊は旅順港奥に引き篭もりバルチク艦隊の来航と共に日本海軍を悩ます事になる。

旅順より南の朝鮮半島の仁川。ここでも海戦が起こった。
戦前から日本海軍三等巡洋艦「千代田」は仁川港にあった。国際港である仁川にはアメリカ・イギリス・フランス・イタリアの艦艇も停泊していて、その中でロシアの二等巡洋艦「ワリヤーグ」と砲艦「コーレツ」を睨んでいた。
2対1であり、性能も「ワリヤーグ」より劣る「千代田」はロシア艦の動向に神経を尖らせ夜間は砲術科と水雷科を戦闘配置に就けて不測の事態に備えていた。
2月8日。瓜生外吉率いる装甲巡洋艦「浅間」に第四戦隊(巡洋艦「浪速」・「高千穂」・「新高」・「明石」)が陸軍部隊を乗せた輸送船と共に仁川沖に到着。「千代田」はこれに合流して劣勢から圧倒的優位な状況となった。
同日夕刻から陸軍部隊をロシアや諸外国の艦艇が見る中で仁川に揚陸させた。これは日本の開戦する意志は確実であると広く伝える事になった。
9日未明に揚陸を終了。午前7時。旅順での第一撃が終わって数時間後、瓜生は「ワリヤーグ」のルードネス艦長へ挑戦状を送る。
「本日正午までに港外に退去せよ。さもなくば、午後4時を期して港内で攻撃を開始する」
瓜生の「浅間」に第四戦隊は仁川沖に待ち構えた。圧倒的不利で留まるも進むもどちらにしても勝機も活路も無かったが「ワリヤーグ」の艦長は瓜生の挑戦を受けて、仁川港を出港する。
午後12時20分。瓜生戦隊は出港した「ワリヤーグ」と「コーレツ」へ砲撃開始。
1隻づつの巡洋艦と砲艦のロシア軍。1隻の装甲巡洋艦と5隻の巡洋艦の日本軍。勝負は最初からついていた。命中弾11発を受けた「ワリヤーグ」は仁川港へ逃げ、午後1時に自沈。「コーレツ」も火薬庫を爆破して自沈した。
敗軍の将となったルードネスと「ワリヤーグ」乗員達は帰国すると英雄として迎えられた。劣勢でも立ち向かった勇者として。
この9日の戦いで日露戦争は実質始まり。翌10日には日本政府から対ロ宣戦布告がなされる。

開戦初日の日本海軍の行動は旅順・仁川のロシア海軍戦力を撃滅して残るウラジオストクの艦隊・来航するバルチク艦隊に備えるものであったが、旅順艦隊の撃滅が思うように完遂出来なかった事が3度の閉塞作戦に黄海海戦。ついには激戦となる旅順攻防戦へと繋がるものとなり旅順艦隊が日本軍の戦略的な足枷となった。

昨日2月9日で俺は24歳になりました。
20代も残り半分が近くなったもんです。

昨日は広島市へ買い物しにマイカーで行ったら、行きと帰りに陸自第13旅団の1/2tトラックこと73式小型トラックに高機動車が多く見れた。(第46普通科連隊所属の)珍しいものだと、赤い旗で「火」と書かれたものを貼り付けたジープがあった。これは実弾が運ばれている事を指している。多分に小銃弾だろう。
また珍しいものとして、第13化学防護隊の除染車と化学防護車を見れた事だろう。これを国道で見たのは初めてだ。化学防護車は82式指揮通信車と言う装甲車を改造したものであるから遠目でもその存在感は大きかった。
もっとも、国道2号線の海田市と東広島市八本松の間では海田市に陸自の駐屯地があり、八本松の演習場に向かう陸自車両を目撃する機会は多い。特に朝と夕方は演習の行き帰りをこのように見れるわけだ。
陸自好きな俺としては戦車で無くても嬉しくてたまらないものだ(笑)(こりゃミーハーだねえw)
昨日見たものだと、八本松の演習場で第46普通科連隊が実弾射撃して、化学防護隊が除染の演習もしたと言う事なのだろうかなと車中推測してみた。

広島市では虎のあなでスクラン・スクイズの同人誌。アニメイトで「狼と香辛料」のOPのCDに「末期戦少女」なるCDも買う。(軍人なヒロインの台詞集)後は古本屋で軍事本を買い漁り、PS2の「太平洋の嵐~戦艦大和、暁に出撃す!~」を買い自分への誕生日とした。

にしても、俺の誕生日でロシア空軍の領空侵犯に空自が総力を挙げてのスクランブルを行う日になるとはw
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葛城マサカズ
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自己紹介:
某掲示板では呉護衛艦隊または呉陸戦隊とも名乗る戦車と眼鏡っ娘が好きな物書きモドキ
現在25歳の広島県在住
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